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時の流れ
ときのながれ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆91 時」 作品社
1990(平成2)年5月25日
入力者富田晶子
校正者noriko saito
公開 / 更新2017-01-01 / 2017-01-01
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「時」は流れると云ふ、それはどんな意味であるか、もとよりはつきりわからぬ。が、我々は普通さう云ふ、またさう考へて居る、何だかわからぬにしても、時を過去・現在・未来にわけると、その「流れ」は過去から現在に、現在から未来へと云ふ塩梅に、どん/\流れて行くと云ふことになつて居る。
「時」を刻むと云ふ時計なるものがある。カチと響いてしまへば、それが過去で、カチ/\とやつて居るときが現在で、まだカチとも何とも云はぬときが未来だと云ふ。併し少し考へて見ると、これほど曖昧なことはない。なぜかと云ふと、このカチなるものを捉へることほど困難なことはないのである。カチときくとき、それは既に過去であり、まだきかぬと云へばそれは未来である。現在は過去が未来に転ぜんとする刹那がそれだと云ふが、その刹那はいつも移動性をもつて居る。アッと云ふ間もなく「刹那」はもうそこにないのである。現在ほど現実なものはないと云ひつつも、その現在ほど捉へ難いものはない。捉へ「難い」ではなくて、その実は捉へ「能はぬ」である。現在が既にさうだとすれば、その現在を基点として、過去と未来とを語らんとする人間の考へは、極めて浮動性を帯びて居ると云はなければならぬ。浮動性と云ふよりも寧ろ極めて抽象的だと云つてよい。現在・過去・未来などと云つて、「時」を刻むのは人間の考への実際的便利の上から云ふので、その実これほど「事実」に即せぬ、非具体的なものはないのである。
「時」を空間的に翻訳して水の流れに喩へて見ると、何だか解つたやうでもあるが、その実、問題は益々迷路に入るのである。川上が過去で、川下が未来だと云ふことに見たいのであるが、「時」の未来なるものは、まだ出てこないのであるから、川の水を山の上からでも見るやうなわけに話することは出来ぬ。川と云へば、両岸に沿うて川床がある、その上を水が流れて、そこに「川」なるものが出来る。「時」にはそんな川岸も川床も考へられない。而して又吾等は「時」なるものを川のやうに、「時」そのものから離れて、それを「時」の岸から見るわけに行かぬ。「時」の岸に上つて「時」の流れを見ると云ふときには、その「時」は現実性を失つてしまふ。なぜかと云ふに、吾等はいつも「時」そのものの中に居るのである。過去・現在・未来の三世に「時」を切つたり、またその外で「時」の流れなるものを一つの連続体として眺めると云ふことは、「時」そのものと、何等の関係をもたぬ抽象体の話をして居ると云ふことになるのである。
「事実」と云ふことは、どんなことを云ふのか、はつきりわからぬやうでもあるが、「時」の事実は実に「時」そのものの中に生きて居ると云ふことに外ならないのである。「時」そのものの中に生きて居ると云ふことは、「天上天下唯我独尊」と云ふことでなければならぬ。此独尊者が「時」を作つて行くのである。「時」は独尊者の生きて行く痕跡な…

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