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生い立ちの記
おいたちのき
作品ID58185
著者小山 清
文字遣い新字新仮名
底本 「落穂拾い・犬の生活」 ちくま文庫、筑摩書房
2013(平成25)年3月10日
初出弟と母のこと「群像 第九巻第十一号」講談社、1954(昭和29)年10月1日<br>家「新潮 第五十一巻第十号」新潮社、1954(昭和29)年10月1日
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2017-10-04 / 2017-09-24
長さの目安約 42 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

思い出

 私は数え年の二つのとき、父母に伴われて大阪へ行った。大正の始であった。
 その頃、私の父は摂津大掾の弟子で、文楽座に出ていた。父は二つのとき失明した。脳膜炎を患ったためだという。父は十三四の頃初めて大阪へ行き、はじめ五世野沢吉兵衛の手解をうけ、その後当時越路太夫と云った摂津大掾のもとに弟子入りをした。祖父の姉で出戻の身を家に寄食していた人が、父に附添って行った。父は時々、学生の帰省するように、東京へ帰ってきては、また大阪へ出向いていたようである。その間に父は結婚して、兄と私が生れた。乳離れのしなかった私が連れられて行ったのは、父の最後の大阪行のときであった。
 大阪のどこに私の一家が住んでいたのか、私は知らない。大阪の家には、父母と私と祖父の姉にあたる人(この人のことを、家ではひとつは祖母と区別するために、大阪おばあさんと呼んでいた)と、それから私の子守のしづやがいた。しづやも東京者で、私達と一緒に大阪へ行ったのである。東京の家には、祖父母と兄がいた。兄は私より二つ年上であった。
 その頃、文楽座は御霊神社のそばにあった。私達が住んでいたのも、そこからそう遠いところではなかったであろう。御霊神社のことを、「ごりょうさん。」と云っていたのを覚えている。おそらく土地の人がそう呼び馴染んでいたのを、私達もそのまま云い倣っていたのだろう。私はしづやに被負って、よく御霊神社の境内へ遊びに行ったようである。「しいや、ごりょうさんへ行くの、しいや、ごりょうさんへ行くの。」そう云って私がしづやにせがんだということを、東京に帰ってきてから、よく母などから聞かされたものである。私は「しづや。」という発音ができず、いつも「しいや。しいや。」と呼んでいた。御霊神社の縁日で、夜店の飴屋のみせをしづやの背中にいて見て、あめが欲しいとせがんだら、「あれは毒です。」としづやから叱るように云われて、飴屋の親爺の顔がそのとき鬼のように見え、毒なものをなぜ売っているのだろうと子供心に訝しく思ったことを覚えている。文楽座で御廉の垂れているのを見た記憶が眼に残っている。おそらく開演前に土間からでも、しづやに被負っていて見た記憶であろう。やはり御霊神社の近くだったらしいが、あやめ館と云う寄席があって、そこへも私はよくしづやに連れられて行ったようである。寄席の入口の前にしづやといたとき、女芸人が人力車で乗りつけたのを見た。中へ入って私達はその女芸人が舞台でやるのを見た。「さっきのねえさんですよ。」としづやが私におしえた。私も覚えていた。女芸人が懐中電灯を掌にして踊りのようなことをしたのを覚えている。しづやは木魚を敲いて阿呆陀羅経の真似をするのが巧かったそうである。暮れがたの町中で、しづやに被負りながら、その阿呆陀経を聞いたような記憶がある。私の玩具の中には、黒ずんだ色の手頃の大きさの木魚が一…

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