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桜林
さくらばやし
作品ID58186
著者小山 清
文字遣い新字新仮名
底本 「落穂拾い・犬の生活」 ちくま文庫、筑摩書房
2013(平成25)年3月10日
初出「文学界 第五巻第七号」文藝春秋新社、1951(昭和26)年7月1日
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2017-09-06 / 2017-08-25
長さの目安約 62 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は浅草の新吉原で生れた。生家は廓のはずれの俗に水道尻という処に在った。大門から仲の町を一直線に水道尻に抜けて検査場(吉原病院)につきあたると、左がわに弁財天を祀った池のある公園がある。土地の人は花園と呼んでいるが、その公園の際に私の家は在った。新吉原花園、そんな所書で私の家に音信のあったのを覚えている。子供の私たちは其処をまた「桜林」と呼び馴染んで、自分たちの領分のように心得ていた。事実桜林は私たちのチルドレンス・コウナアであった。
 聞くところによると、明治四十三年の夏の水害と翌年春の大火とは、吉原とその界隈の町の有様を一変させたと云うが、私はちょうどその大火のあった年の秋に生れた。物心がついてまもなくあの大震災があった。震災は私たち東京人の生活に一時期を画したが、私としても自分の少年の日は震災と共に失われたという感が深い。
 震災後の吉原はまったく昔日の俤を失って、慣例の廃止されることも多く、昔を偲ぶよすがとてはなかった。公園もきれいに地均しをされて、吉原病院の医師や看護婦のテニス場と化してしまった。私たちがそこを桜林と呼んだのも、桜樹が沢山植えてあって、季節には仲の町に移し植えられて、所謂夜桜の光景を見せたからである。公園と云うよりは桜林と呼ぶ方がふさわしかったのである。草深くて、ささやかながら私たち町っ子の渇を癒すに足るだけの「自然」がそこにはあった。池の面も南京藻がいっぱい浮かんでいて、ちょっと雨が降ればすぐ水が溢れた。私の子供の時分にも小さい出水は毎年あった。私自身溺れかけたこともあり、また休暇に遊びに来た兵隊さんが誤って池に堕ち遂に帽子を発見出来なかったという話もある。夏ともなれば私たちは草いきれを嗅いでとんぼ採りに寧日がなかった。桜林と廓外との境には丈の高い木柵がめぐらしてあった。柵の向うは廓外のしもたやの縁先になっていて、葡萄棚やへちまの棚があって、柵には朝顔の蔓なんかが絡みついていた。私たちは朝まだき、露で下駄を濡らしては、よく朝顔の花を盗ってきたものだ。私の家はちょうど桜林の入口のところにあったので、二階の窓から上野の山や浅草公園の十二階が見えた。おそらく晴天の日には遠く富士も見えたような気もするが、はっきり記憶には残っていない。低い土地であったから、むかしの錦絵に見るようなわけには行かなかったかも知れない。
 私の家はもと京町二丁目で兼東という名で貸座敷業を営んでいたが、祖父の代に店を人に譲った。祖父は三業取締の役員もしていたようで、二六新報の計画した娼妓自由廃業の運動の際にも、また救世軍がその遊説の太鼓を廓内にまで持ち込んだ時にも、間に立って調停の役を勤めたとかいう話である。
 私の子供の時分、家でいちばん威張っていたのはこの祖父であった。母屋から渡り廊下のついている離れに起臥していたが、そこから家内中に号令していた。お山の大将…

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