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現代と浄土宗
げんだいとじょうどしゅう
作品ID58311
著者佐藤 春夫
文字遣い新字新仮名
底本 「仏教の名随筆 2」 国書刊行会
2006(平成18)年7月10日
初出「浄土 第九巻第一号」1943(昭和18)年1月1日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2018-02-08 / 2018-01-27
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

現代と宗教

 現代は科学の時代であるという。それは已にその通りである。だから宗教などは不必要であるかの如く説く者があったら、大間違いであろう。科学には科学の領域があって、宗教は科学の支配する世界ではないからである。科学が兜を脱いだところから宗教がはじまるからである。科学は人間の生理と病理とを支配してはいるが霊魂は支配していないからである。心臓や神経の作用についてはよく説明する科学も霊魂というものの存在は全く知らない。そうしてそれ故に科学は霊魂を無しと断定する。何でも知らないものは無いとうぬぼれている人間が、自分の知らないものを無いときめてかかってしまうたぐいである。この種の心驕りの極みに達した者に対しては宗教は全く縁なき衆生として度し難きを歎ずるのみである。全く「おろかなる者は世に神なしと言へり」とバイブルにあるのも、この同じ意味であろう。宗教は人間の理智の無力で頼むに足らぬことを知るところから発足するのである。この困惑を経験しない人間は大馬鹿である。そうして大馬鹿の欲しがるものは金や名誉や世俗の幸福だけである。それで気のすむ人にはなるほど宗教の必要はあるまい。世は科学の時代ではあろう。しかし科学の時代だということが、大馬鹿の時代という事と同じ意味であろうと自分は思わない。否、科学の時代とは人間が智慧を尊重する時代という意味であろう。そうでなければならないと自分は思う。智慧は成長する。成長した智慧は自然界の大法則を学びこれを尊重するであろう。科学は目に見える自然界の法則を学びこれを尊重する精神が我々の所謂宗教である。我々の宗教と科学との相違は目に見える自然界のみを世界とするか、目に見えぬところにも世界があると感じるかだけの相違である。科学者が肉眼で見えない世界を科学的な器械の目で見て別世界を持つが如く、すぐれた信仰の士は俗眼でも器械の眼でも見ることの出来ない精確な心の眼を以て心の世界を見てその大法則に驚き畏敬を感ずるであろう。これが我々のいう宗教なのである。

現代と浄土宗

 一切を阿弥陀仏に帰一して、その絶対の力に楽しみ喜んで服従しようとする浄土宗の教えは、天皇に帰一し奉ろうと身命を捧げている日本人にとっては、不思議と互に似た信仰に感ぜられるに相違ない。格別の不思議はない。思うに法然上人は我が国体の認識を深くして仏教のなかにこの国体の認識を織り込んで置かれたからである。この意味で浄土教こそ最も日本的な宗教と言い得る。
 自分はこの間古河の近村に「日本の母」を訪問して、一家の愛国の熱情と捧仕の生活とに感動して、この家族は必ず信仰の力に生きているであろうと感じたから、これを聞いてみたら代々浄土宗の家であるという答であった。自分はなるほどと感じて、一切が明瞭になったのをおぼえた。
 現代が科学の時代である事だけを知って、我々の愛国精神の影に古来の日本的宗教が…

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