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又三郎の学校
またさぶろうのがっこう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「宮沢賢治研究資料集成 第2巻」 日本図書センター
1990(平成2)年6月25日
初出「都新聞」1939(昭和14)年12月15日、12月17日
入力者富田晶子
校正者雪森
公開 / 更新2017-08-27 / 2017-07-30
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

(一)

 四十年も前の事である。母に死なれた子供達はその父に連れられて凾館から祖父が住む信州に、倅に後添が出来た、孫共は祖父に連れられて再び凾館の倅へといつた次第で、そのをりの私の祖父の手帖に綴ぢた道中記には、確松島見物の歌などもあつた筈ではあるが、東北の人に東北は始めてですかと聞かれれば、始めてですと答へるよりほかにないその東北に、其の一つ一つが珍しい旅をすることができた。尤も私が歩いたのは単に花巻、盛岡、滝沢の範囲だけである。
    ――▲――
 私は最近坪田譲治から宮澤賢治といふ名を始めて聞いた。書店は私に宮澤賢治全集、宮澤賢治名作選、注文の多い料理店等の本を呉れた。また賢治の絵といふものが、東京から盛岡にかけて幾点かある事も聞かされた。
 しかしながら自分のやうな者は、本来安井曾太郎と中川一政の二人を偉いと思つてゐればよいので、正直なところ宮澤賢治の故郷花巻のはづれや、盛岡から二つさきの滝沢の放牧場で、向ふの山の麓、あれが啄木の出たところですと人々に指さし教へられても、これはなかなか戦国時代だなあと腹の中に呟きこんでゐたのである。
 私はただ、「風の又三郎」の作者を生んだ土地を見、かたがたその又三郎を入れるのに適当な学校を探すため、遥々奥州へも下つてみたのである。
    ――▲――
 斯う書けば、宮澤賢治の敬愛すべき父母、またよきその弟、また数箇かの賢治の会、この賢治の会には、賢治が彼の意図のコンパスを拡げて土を耕し小屋を建て、その小屋に童共を集めてグリムやアンデルセンの物を聞かせてゐたと聞く、当時の童が今日は齢二十四五、農学校に教諭として彼を持つた生徒等の齢は三十三四、斯ういつた人達もゐるであらうに、私の感情が冷たいとの誤解があるかも知れない。
    ――▲――
 私が又三郎を入れる学校は、彼宮澤賢治がその作物を盗みぬかれてゐたその一つ一つの跡へ、薄の穂を一本づゝ[#挿絵]しておいたといふ畑の横を流れてゐる北上川の渡を渡つて行つた島分教場であつた。
島文教場は児童の在籍数
[#挿絵]
といふ学校である。
 読者はこの学校の所在地を貧弱なものとして考へるかも知れない。私も見ないうちはさう考へてゐた。見ればその部落は甚だ綺麗で、作物も立派であり、家々は少くとも私の家よりは堂々としてをり、そこで豊かに落ついた静かな暮しが想はれるのである。
 それに戸毎の戸袋には意匠がほどこしてあるのである。一軒の家に殊に立派なものがあつた。私は一寸見た時始め仏壇が戸外に安置されてゐるのかと思つた。漆喰でかためたものであつた。私の興味は花巻に残つてゐる足軽同心の家よりもあの部落の戸袋に残つてゐる。

(三)

 盛岡といふ所も甚だ愉快に思へた。私を愉快にしたのは何も賢治の会の方方ではないのである。私は公園で、オホコノハヅクと梟を楽んで見た。盛岡の高橋さんは私に教師…

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