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学生時代の菊池寛
がくせいじだいのきくちかん
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「文藝春秋 昭和二十三年十月號」 文藝春秋新社
1948(昭和23)年10月1日
初出「文藝春秋 昭和二十三年十月號」文藝春秋新社、1948(昭和23)年10月1日
入力者sogo
校正者富田晶子
公開 / 更新2018-01-01 / 2018-01-01
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

    △
 菊池寛は明治四十三年夏のはじめに一高の入學試驗をうけたが、私もやはりその時の受驗生の一人だつた。身體檢査の際に、みんなが猿又一つのまる裸になつて、一列にならびながら自分の順番を待つてゐるとき、丁度私のすぐ前に同君が立つてゐた。その頃から同君は年齡よりはずつとふけて見える顏つきだつたが、若い女のやうな、むつちりした曲線的な肉つきをしてゐる癖に、四角張つた、いかつい、恐ろしさうな顏をしてゐて、高い調子の聲でなんだか私に話しかけたことを、今でもよく記憶してゐる。それで、同君の生前のことを彼れ是れと心に思ひうかべると、その時にあたへられた、肉體的矛盾の極めて鮮明な第一印象が何よりもはつきりと思ひ出されるのである。
 その年の九月になつて、英文科一年の教室で、四十人ばかりの同級生の中に、私は再び菊池寛のすがたを見出した。おたがひに『やあ』、『やあ』とあいさつをかはしたものだつた。
 當時は方々の中學校から優秀の成績の卒業生を推薦し、その中から選拔して高等學校に無試驗で入學させる制度が行はれてゐた。そのやうな無試驗組の者が私たちのクラスには七八人あつたかと思ふ。その中には佐野文夫や芥川龍之介や久米正雄などの人々がゐた。それから採點がきびしいので有名だつた岩元先生のドイツ語の試驗に祟られて原級に留まつた者が十人あまりあつた中には、山本有三、土屋文明などの諸君がゐた。殘りの二十人足らずの者が、菊池寛や私などのやうに新たに受驗して入學した連中だつたわけである。
    △
 間もなく十一月のはじめに、行軍のために全校の學生が甲府をさして出かけて行つた。本郷にあつた元の一高の校舍の門を出るときから、雨がしきりに降つてゐて、私たちは釣り鐘マントの上に舊式の小銃をかつぎながら、飯田橋の驛まであるいて行つた。甲府の手前で下車して、笛吹川の沿岸で演習をやつたが、そのあひだも雨はふり續いてゐた。甲府の聯隊から將校がやつて來て演習のさしづをしたので、中々きびしい演習のしかただつた。夕方ちかく演習が終了し、將校の講評があつた後、甲府の町をさして行進をはじめたころには、みんなすつかり疲勞してゐて、隊伍を亂してあるいた。扁平足の菊池寛は殊にへこたれて、あゆみなやんだので、誰かが彼の小銃をかつぎ、ほかの誰かが彼をたすけて雨のそぼふる田舍みちをあるいて行つた。
    △
 著しい特色をもつた學生の多いクラスだつたが、その中でも菊池寛は異彩を放つてゐたやうに思ふ。いつもずんぐりとふとつた上半身の臍のあたりから下に袴をつけてゐるものだから、袴の裾を地べたに曳きずるやうにしながら、教室の廊下や校庭などを小股にあるいてゐたものだつた。きつい音痴で、寮歌をうたふにも、音譜を無視して、黄いろい聲を突拍子に張りあげながら、自分勝手な節をつけて歌つてゐた。
 事情のために高等師範を中途で退學して、一…

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