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「の」の字の世界
「の」のじのせかい
作品ID58565
著者佐藤 春夫
文字遣い新字新仮名
底本 「定本 佐藤春夫全集 第24巻」 臨川書店
2000(平成12)年2月10日
初出「読売新聞 夕刊」1953(昭和28)年10月24日
入力者焼野
校正者菜夏
公開 / 更新2017-10-31 / 2017-09-24
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 うたちゃんは、三人兄弟の末で、来年からは幼稚園へ行こうというのですが、早くから、自分ではお姉ちゃん気どりで「えいちゃん」「えいちゃん」と、自分をよんでいます。「えいちゃん」とは、ねえちゃんのかたことなのです。
 うたちゃんは、「えいちゃん」だけに、二つ上のなき虫の兄がなくと、すぐ手ぬぐいを持って行って、なみだをふいてやったり、頭をさすったり、まことによく気のつく、りこうな子なのです。それだのに、どうしても字をおぼえません。なき虫の兄さんの方は、うたちゃんの年ごろには、だれも少しも教えないのに、野球かるたで、平がなはすっかり読み書きをおぼえ、それからは、すもうの名まえといっしょに、その本字までたくさんおぼえていたものです。兄弟でも、これほどちがうものか。うたちゃんも、今にはひとりでおぼえるだろう、といっていても、なかなかそのけぶりもありません。うたちゃんは、え本でもなんでも、あけてみてはすぐおもしろいお話をこしらえて、みなひとりで読んでしまうのです。これでは、まるで字の必要もないわけなのだ、と気がつきました。それにしても、自分の名まえぐらい書けないではようち園でもこまるだろう。
 ちょっとためしに、名まえの三字だけでもおぼえさせて見よう、と「う」の字から教えはじめたが、やっぱりだめなのです。二、三日かゝって、やっと読み方はおぼえたが、書くことはどうしてもだめなので、あきらめて「の」の字を教えはじめました。「う」の字の下を「の」のように書くのに気がついたからです。「の」の字を、はじめはまるい字とよんで、これを読むことはすぐおぼえましたが、書くのは、逆の方向にまげたり、しっぽの方から頭へもって行ったり、どうしてもだめでしたが、三日ほどしたら、どうやらそれらしい字ができはじめました。書きはじめても、読み方をわすれてはいけない、と書くけいこをさせながらも、え本や学校の本などを出してきて、うたちゃんに「の」の字をさがし出させているうちに、兄さんの野球の雑誌からも、お父さんの新聞のうしろからも、うたちゃんは「の」の字さえ見れば、きっとひろい出すようになり、書くこともだんだん上手になりました。
 うたちゃんの世界は、今や「の」の字の世界になりました。新聞には、大きいのや小さいのや「の」の字はどっさり。うたちゃんには、新聞も「の」の字ばかりです。お兄さんのまわすコマが、「の」の字を書いているし、コマのヒモも、おえんがわで「の」の字になっています。お庭のカタツムリは「の」の字をしょって歩いているし、うたちゃんの夜具のカラクサもようも、あちらむきやこちらむきの「の」の字が一ぱいです。お兄さんの頭の上に、だれか「の」の字を書いているというのを見ると、つむじのことなのです。お庭に「の」の字が生きて動いていた、というので、ついて行って見ると、ミミズがいたので、みんなでわらいました。

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