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絶望を与へたる者
ぜつぼうをあたえたるもの
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 横光利一全集 第十三卷」 河出書房新社
1982(昭和57)年7月30日
初出「新潮 第四十一卷第一號」1924(大正13)年7月1日
入力者悠歩
校正者mitocho
公開 / 更新2018-03-03 / 2018-02-25
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 文学論と云ふものがある。これは文学界に於ける道徳の役目をするもので、既成作家の作品は、既に此の道徳律に当て嵌められて正しいと看做されたるものなるが故に、正しいのである。古くとも正しいものと云ふものは、その古さの正しさに於て存在の意義を有つ理由には、何人もひと先づ頭を下げるべきが至当のことと思はれる。此の故、自分はわれわれの歴史の中に見えてゐる大家諸卿の作品に対しては、礼譲を忘れてはならぬと注意するものの一人である。仮令それはいかにわれわれ自身と距離を隔ててゐるとは云へ、われわれの母なるが故の理由のもとに足蹴にしてはならないのである。

 しかし、われわれはかかる諸卿の言葉に黙従してゐる子であつたとしたならば、悲しむべきものはわれわれでなくて誰でもない。何ぜなら、それは苦痛だからだ。苦痛が増せば増すほど子は苦痛を与へる母を蹴上げて逃げるのは定つてゐる。此の故苦痛を感じる子は逃げればよい。子には子の物欲しさがある。それは親の物欲しさとは違つてゐる。この物欲しさこそ母親は見るべきだ。この物欲しき子の眼を見るべき母の眼がないならばその母は軈て子のために蹴られるのも定つてゐる。先づ子には子の欲する物を与ふべし。いかに子はその食ふべきものを食らふかは見てゐるより仕方がない。

 われわれの長者、田山花袋、正宗白鳥、諸氏の作品に現れた人生観は、その年齢に対して実に概念的だ。それほど果して人生が概念的なものであるならば、須彌山の頂上から釋尊を転がし落すあつぱれ手品師に拍手をしよう。これは当然なことである。

 概念的な人生観をいけないと云ふのでは決してない。出来ることなら聞きたくはないと云ふのである。何ぜなら、分つてゐるからだ。分つてゐることは聞きたくないのが山々だ。誰か老年の人々の中から素晴らしい天才が現れてはくれないか。われわれの人生は若い天才を信用することが出来ない。信用しなければならない程若き天才を、人生は必要とはしないのだ。絶えず人生は若き天才を欲して失敗した。今や老いたる天才が必要だ。老いたる新しき人生観が必要だ。

 再び花袋、白鳥、両氏に苦言を捧ぐ。卿らの人生観は、若きわれわれの愛恋のごとくしかく概念的な姿であつた。

 田山花袋氏、読売紙上の月評に於て、「青い空」に与へて曰く、「悲しいことには作者にはまだ人間が本当にわからない。年を取つた女、四十先のお柳の心持ちがわからない。そのため折角そこにあらはされたお柳は、作者の意志の傀儡になつて了つてゐる。云々。」
 自分は此の言葉の不当を云ふためにここに引用したのでは決してない。ただ、氏の如き事物の本心をこれ捜らんとした時代の人として、此の言葉はいかに必然であつたとしても、かかる批評は若き人々に対する芸術的犯罪の一犯であることを証拠立てたいがためである。曾て事物の本心を捜らんとしたのが卿らであり、まさに唾棄すべ…

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