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輝ける朝
かがやけるあさ
作品ID597
著者水野 仙子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「叢書『青踏』の女たち 第10巻『水野仙子集』」 不二出版
1986(昭和61)年4月25日復刻版第1刷
入力者小林徹
校正者丹羽倫子
公開 / 更新1998-10-28 / 2014-09-17
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 さうだ、私はそれを忘れないうちに書きとめて置かう。この輝いた喜の消え去らぬうちに、このさわやかな心持のうすれゆかぬうちに……私はこの朝の氣持を、決して忘れる事はないであらうけれども、だからといつて書きとめて置く事の決して無益なことではあるまいと思ふ。却つて私の病に於ける無爲の時間が、その爲に生きこそはしても。
 それは昨夜のことであつた。……いや私は先づいきなりその事に筆を進める前に、ついでだから少し自分のこの頃の状態をも記して置かう。
 日記を怠つてからもう七年になる。もし私がこの世から消え去つたならば、極めて少數の人に送つた手紙以外には、私自身の直接に觸れた生活は、その斷片をも人に窺はれなくなるであらう。(嘗て丹念につけたことのある日記も今はすべて燒いてしまつた。)そしてそれでいゝのだ。私といふ者がないあと、私に關したすべての事は消え去れ! 私は遺して置かなければならぬ何物をも持つてゐないと信じてゐる。そしてそれは一番己を知つた言葉だと思つてゐる。私は別に豪い人間でも、感心な人物でもない。人は別に私の生ひたちやその履歴を必要としないであらう。だからこそ私は氣安くその日その日を送つてゐられるのだ。
 けれども、それは決して私がうかうかとのんきに日を暮してゐるといふ意味ではない。私とても生きてゐる以上は、何かこの世もしくは人々の上に役に立つことをしたいと思ふ。さうしてある場合その自信を失つた時には、せめて無害な人間でありたいと思つて心を配る。そんな時には一寸廊下のたたずみにも、もしや人の邪魔になりはしないかと、おどおど自分の身をせばめたりする。或は私の良心も病んでいぢけてゐるのかも知れない。で、實をいふと、私位氣をつけてその日その日を送つてゐる者も少いのだ。こんなわけで、その日その日の記録を自分の心一つに疊んでしまふにはあまり惜しいやうな氣のする時もあるけれど、死後には何物をも遺すまいとする心から、それを文字にするといふ事はなるべく避けてゐる。それだのに今日はなぜか私の内部のものがそれを促して止まない。一度書いてまた灰にするとも、それではともかくその私の心の要求に從つて行かう。
 この部屋がどういふ室であるかはあの壁に懸つた體温表が、無言ながら完全にそれを語つてゐる。大分熱は下つて來た、七度の赤い線をまん中にして、青い鉛筆の跡が、ちようど蒲公英の葉の線のやうに延びて行く。親もなく、夫もなく、子もなく、たつた一人の兄弟より外にはなかつた身の、あまり劇しい生の執着とてはなかつたけれども、病氣がかうしてだんだん快くなつて見れば、やつぱり嬉しい。助かつたやうな氣がする。そしてその助かつたやうな氣のするところから、これまでにない命の貴さが感じられる。私はやつぱり生に執着がなかつたわけではなかつたのだらう。たゞあきらめの分子が、他の情實に纒はられた人よりも幾らか多かつ…

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