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神楽阪の半襟
かぐらざかのはんえり
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「明治文學全集 82 明治女流文學集(二)」 筑摩書房
1965(昭和40)年12月10日
入力者小林徹
校正者しず
公開 / 更新1999-06-30 / 2014-09-17
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 貧といふものほど二人の心を荒くするものはなかつた。
『今日はお精進かい?』とでも、箸を取りかけながら夫がいはうものなら、お里はそれが十分不足を意味してるのではないと知りながら、
『だつて今月の末が怖いぢやありませんか。』と、忽ち怖い顏になつて聲を荒だてる。これだけ經濟を爲し得たといふ消極的な滿足の傍、夫に對してすまないやうな氣の毒のやうな、自分にしても張合のない食卓なので、恰も急所をつゝかれたやうにおなかの虫が首を曲げるのである。
『何もそんなに聲を尖らせなくたつていゝぢやないか。』と、夫の顏も引き緊つて來る。そしてもたれ合つてゐた愛情が、てんでに自分の持場にかへつて固くなつてしまふやうなことがまゝあつた。
 貧といふものほどまた二人の間を親密にするものはなかつた。恰もそれが愛情に注ぐ油ででもあるかのやうに。
『寒くなつたねえ。もう電車に乘つてもコートを着てない人は一人もゐないねえ。さつちやんもどうかして是非一つ作らなけりやあ……』と、夫は改札口を出るといきなりつめたく咽喉を刺す空氣を怖れるやうに、外套の袖で鼻のあたりをおさへながら言つた。
『寒いだらう?』
『いゝえ。』と、お里は齒の根の震へさうなのを噛みしめて、肱を張つて兩袖を胸の前にかき合せながら、『コートなんか無くたつて過せるわ。あれはそんなに暖いたしにはならないんだから。』と、自分で自分に殊勝な心がけを言ひ含めるやうに言つた。そして我ながらしほらしい氣分をめでるやうに、涙ぐましくなつたのを紛すやうに言葉を重ねて、『あなたは? 寒かあない?』と、病後の夫の血の氣の少い顏を下から覘き込んだ。
 それはある日、十一月も僅に一二日を後に殘してゐる頃であつた。どうかかうかその月費したものを償ふだけの金が手に入ると、二人は急に開放されたやうな心持になつて、藥代としたものだけを蟇口の小口に分けて、日の影のない曇つた寒い日なのにも拘らず、三時といふ半端な時間なのにも躊躇しないで、郊外の家から久しぶりで甲武線の電車に乘つたのであつた。山が欠けたまゝ四五日我慢して履いてゐた夫の駒下駄を買ふのが、樂しい第一の目的であつた。
 牛込見附の櫻の枯枝の隙に光るお濠の水のつめたさうなよどみに、鴨か何かゞ靜にぢつとつぐまつて浮んでゐる。冬の日はもうあたりに夕暮の用意をしてゐるらしかつた。
『僕はマントも着てゐるし、ちつとも寒かないがね、さつちやんが寒いだらうと思つてさ。電車の中で向側から見てゐたら、なんだか寒さうな土氣色をしてゐたよ。この頃少し痩せたやうだね。』
『さうでもないでせう。』と、お里は笑ひながら自分の頬を撫でて見たが、新しく涙が湧き出ようとしてゐるのを覺えた。
 お里はいつも優しく言はれると泣きたくなるのである。そしてつくづくこの四五箇月のことが振りかへられる。いつだつて今月こそどうしようと思はない月はなかつた。都合…

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