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嘘をつく日
うそをつくひ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「現代日本文學全集 85 大正小説集」 筑摩書房
1957(昭和32)年12月20日
入力者小林徹
校正者野口英司
公開 / 更新1998-07-09 / 2014-09-17
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 患者としてはこの病院内で一番の古顏となつたかはりに、私は思の外だんだん快くなつて行つた。
 もう春も近づいた。青い澄んだ空は、それをまじまじと眺めてゐる私に眩しさを教へる。さうしてついとその窓を掠めて行く何鳥かの羽裏がちらりと光る。私はむくむくと床をぬけ出して、そのぢぢむさい姿を日向に曝し、人並に、否病めるが故に更により多くの日光を浴びようと端近くにじり出る。或は又新しい心のあぢはひを搜しに、ぶらりぶらりと長い廊下を傳つて行く。たとへば長い間寢ながら眺めてゐた向側の病室の前を歩いて見る事、または階下に降りて見るたのしみ、幾月かの間あこがれてゐた土を踏んでみる事の愉悦、しかしそれらの事が毎日とどこほりなく行はれなければこそ、その期待のたのしみは續く……蝸牛は木の葉のゆらぎにでもその觸角を殼の中に閉ぢ込めなければならない。かくして私もある日は部屋に閉ぢて、しづかにその障害の去るのを待ちつつ横るのである。それは大抵わづかではあるが、熱とそれから胸部のいたみとのためであつた。
 けれども月日は私の元氣に後楯をした。診察室の前の大鏡に映る、ひつつめ銀杏の青白い顏は、日に日に幾らかづつ色を直して行つた。長い間には病院の内も外も私の散歩になれて、新しい感味が單純な頭を喜ばす事は少くなつた。それでもなほたつた一人の無聊さに――ある時はそれが無上にやすらかで嬉しかつたけれど――歩きなれた廊下をぶらりぶらりとあてもなく私は病室を出かけて行く。
 かうした日のつづきに、私がふと四月一日が來るのに氣がついて喜んだのは、その十日ばかりも前の事であつた。四月一日、それは藥を飮む事と、喰べることと、眠ることと、それから遊ぶ事より外には能のない人間にとつては、まことにお誂向の新規ななぐさみであつた。All fools day ! 一年の中にただこの日だけ嘘が許される程、常に人々の心に正直が保たれてあるとも思へないけれど、それはともかく、親しい人達を大つぴらに瞞したりかついだりする事が出來るのは面白い事に違ない。この幾年かの私の辛慘な生活に於ては、なかなか思ひ出せもしなかつた、また思ひ出してもそれを實行する程の興味を伴はなかつた「四月馬鹿」が、漸く死の虎口を遁れて來た恢復期の門のあたりで、人世の嘘を享樂すべく私を誘つたのであつた。
 私はうつかりしてその日を忘れないやうに、またどんな方法で皆をかついでやらうかなどと考へながら四月を待つた。もうかれこれ二百日近くも病院で暮してゐるので、院長をはじめ内科の醫員や看護婦達とは隨分したしみが出來てゐた。
「先生! 四月一日がもうぢき參りますから油斷してらつしやらないやうに……」
 ある日私は最後の診察室の寢臺を下りながら、笑ひ笑ひ院長に向つて言つた。
「さう、四月ももうぢきですね、全くぐづぐづしてをられないなあ!」と、若い院長は立ち上りながら、曇硝…

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