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名人伝
めいじんでん
作品ID620
著者中島 敦
文字遣い旧字旧仮名
底本 「中島敦全集 第4巻」 文治堂書店
1967(昭和42)年6月末第3版刊行
入力者Hitoshi Nagano
校正者j.utiyama
公開 / 更新1998-10-26 / 2014-09-17
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 趙の邯鄲の都に住む紀昌といふ男が、天下第一の弓の名人にならうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、當今弓矢をとつては、名手・飛衞に及ぶ者があらうとは思はれぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百發百中するといふ達人ださうである。紀昌は遙々飛衞をたづねて其の門に入つた。
 飛衞は新入の門人に、先づ瞬きせざることを學べと命じた。紀昌は家に歸り、妻の機織臺の下に潛り込んで、其處に仰向けにひつくり返つた。眼とすれすれに機躡が忙しく上下往來するのをじつと瞬かずに見詰めてゐようといふ工夫である。理由を知らない妻は大に驚いた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人に覗かれては困るといふ。厭がる妻を紀昌は叱りつけて、無理に機を織り續けさせた。來る日も來る日も彼はこの可笑しな恰好で、瞬きせざる修練を重ねる。二年の後には、遽だしく往返する牽挺が睫毛を掠めても、絶えて瞬くことがなくなつた。彼は漸く機の下から匍出す。最早、鋭利な錐の先を以て瞼を突かれても、まばたきをせぬ迄になつてゐた。不意に火の粉が目に飛入らうとも、目の前に突然灰神樂が立たうとも、彼は決して目をパチつかせない。彼の瞼は最早それを閉ぢるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡してゐる時でも、紀昌の目はクワッと大きく見開かれた儘である。竟に、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹の蜘蛛が巣をかけるに及んで、彼は漸く自信を得て、師の飛衞に之を告げた。
 それを聞いて飛衞がいふ。瞬かざるのみでは未だ射を授けるに足りぬ。次には、視ることを學べ。視ることに熟して、さて、小を視ること大の如く、微を見ること著の如くなつたならば、來つて我に告げるがよいと。
 紀昌は再び家に戻り、肌着の縫目から虱を一匹探し出して、之を己が髮の毛を以て繋いだ。さうして、それを南向きの窓に懸け、終日睨み暮らすことにした。毎日々々彼は窓にぶら下つた虱を見詰める。初め、勿論それは一匹の虱に過ぎない。二三日たつても、依然として虱である。所が、十日餘り過ぎると、氣のせゐか、どうやらそれがほんの少しながら大きく見えて來たやうに思はれる。三月目の終りには、明らかに蠶ほどの大きさに見えて來た。虱を吊るした窓の外の風物は、次第に移り變る。熙々として照つてゐた春の陽は何時か烈しい夏の光に變り、澄んだ秋空を高く雁が渡つて行つたかと思ふと、はや、寒々とした灰色の空から霙が落ちかかる。紀昌は根氣よく、毛髮の先にぶら下つた有吻類・催痒性の小節足動物を見續けた。その虱も何十匹となく取換へられて行く中に、早くも三年の月日が流れた。或日ふと氣が付くと、窓の虱が馬の樣な大きさに見えてゐた。占めたと、紀昌は膝を打ち、表へ出る。彼は我が目を疑つた。人は高塔であつた。馬は山であつた。豚は丘の如く、[#挿絵]は城樓と見える。雀躍して家にとつて返した紀昌は、再び窓際の虱に立向ひ、燕角の弧に朔蓬の[#挿絵]を…

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