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白蟻
しろあり
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「小栗虫太郎傑作選 Ⅱ 白蟻」 現代教養文庫、社会思想社
1976(昭和51)年9月30日
入力者酔尻焼猿人
校正者条希
公開 / 更新1999-07-11 / 2014-09-17
長さの目安約 109 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 かようなことを、作者として、口にすべきではないであろうが、自分が書いた幾つかのなかでも、やはり好きなものと、嫌いなものとの別が、あるのは否まれぬと思う。わけても、この「白蟻」は、巧拙はともかく、私としては、愛惜措く能わざる一つなのである。私は、こうした形式の小説を、まず、何よりも先に書きたかったのである。私小説――それを一人の女の、脳髄の中にもみ込んでしまったことは、ちょっと気取らせてもらうと、かねがね夢みていた、野心の一つだったとも云えるだろう。
 のみならず、この一篇で、私は独逸歌謡曲特有の、あの親しみ深い低音に触れ得たことと思う。それゆえ私が、どんなにか、探偵小説的な詭計を作り、またどんなにか、怒号したにしても、あの音色だけは、けっして殺害されることはないと信じている。ただ惜しむらくは、音域が余りに高かったようにも思われるし、終末近くになって、結尾の反響が、呟くがごとく聴えてくる――といったような見事な和声法は、作者自身動悸を感じながら、ついになし得なかったのである。
 私は、この一篇を、着想といい譜本に意識しながら、書き続けたものだが、前半は昨年の十二月十六日に完成し、後半には、それから十日余りも費やさねばならなかった。それゆえ読者諸君は、女主人公滝人の絶望には、真黒な三十二音符を……、また、力と挑戦の吐露には、急流のような、三連音符を想像して頂きたいと思う。
 なお、本篇の上梓について、江戸川・甲賀・水谷の三氏から、推薦文を頂いたことと、松野さんが、貧弱な内容を覆うべく、あまりに豪華な装幀をもってせられたことに、感謝しておきたいと思う。
一九三五年四月
世田ヶ谷の寓居にて
著者


序、騎西一家の流刑地

 秩父町から志賀坂峠を越えて、上州神ヶ原の宿に出ると、街を貫いて、埃っぽい赤土道が流れている。それが、二子山麓の、万場を発している十石街道であって、その道は、しばの間をくねりくねり蜿々と高原を這いのぼっていく。そして、やがては十石峠を分水嶺に、上信の国境を越えてゆくのだ。ところが、その峠をくだり切ったところは、右手の緩斜から前方にかけ、広大な地峡をなしていて、そこは見渡すかぎりの荒蕪地だったが、その辺をよく注意してみると、峠の裾寄りのところに、わずかそれと見える一条の小径が岐れていた。
 その小径は、毛莨や釣鐘草や簪草などのひ弱い夏花や、鋭い棘のある淫羊[#挿絵]、空木などの丈低い草木で覆われていて、その入口でさえも、密生している叢のような暗さだった。したがって、どこをどう透し見ても、土の表面は容易に発見されず、たとい見えても、そこは濃い黝んだ緑色をしていて、その湿った土が、熱気と地いきれとでもって湧き立ち、ドロリとした、液のような感じを眼に流し入れてくる。けれども、そのように見える土の流れは、ものの三尺と行かぬまに、はや波のような下生え…

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