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オリンポスの果実
オリンポスのかじつ
作品ID669
著者田中 英光
文字遣い新字新仮名
底本 「オリンポスの果実」 新潮文庫、新潮社
1951(昭和26)年9月30日、1991(平成3)年11月30日52刷改版
初出「文学界」1940(昭和15)年9月号
入力者大野晋
校正者伊藤時也
公開 / 更新2000-02-07 / 2014-09-17
長さの目安約 152 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 秋ちゃん。
 と呼ぶのも、もう可笑しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い筈だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房を貰い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、近頃風の便りにききました。
 時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。
 恋というには、あまりに素朴な愛情、ろくろく話さえしなかった仲でしたから、あなたはもう忘れているかもしれない。しかし、ぼくは今日、ロスアンゼルスで買った記念の財布のなかから、あのとき大洋丸で、あなたに貰った、杏の実を、とりだし、ここ京城の陋屋の陽もささぬ裏庭に棄てました。そのとき、急にこうしたものが書きたくなったのです。
 これはむろん恋情からではありません。ただ昔の愛情の思い出と、あなたに、お聞きしたかったことが、聞けなかった心残りからです。
 思わせぶりではありますがその言葉は、この手記の最後まで、とっておかして下さい。



 あなたにとってはどうでしょうか、ぼくにとって、あのオリムピアへの旅は、一種青春の酩酊のごときものがありました。あの前後を通じて、ぼくはひどい神経衰弱にかかっていたような気がします。
 ぼくだけではなかったかも知れません。たとえば、すでに三十近かった、ぼく達のキャプテン整調の森さんでさえ、出発の二三日前、あるいかがわしい場処へ、デレゲェション・バッジを落してきたのです。
 モオラン(Morning-run)と称する、朝の駆足をやって帰ってくると、森さんが、合宿傍の六地蔵の通りで背広を着て、俯いたまま、何かを探していました。
 駆けているぼく達――といっても、舵の清さんに、七番の坂本さん、二番の虎さん、それに、ぼくといった真面目な四五人だけでしたが――をみると、森さんは、真っ先に、ぼくをよんで、「オイ、大坂、いっしょに探してくれ」と頼むのです。ぼくの姓は坂本ですが、七番の坂本さんと間違え易いので、いつも身体の大きいぼくは、侮蔑的な意味も含めて、大坂と呼ばれていました。
 そのとき、バッジを悪所に落した事情をきくと、日頃いじめられているだけに、皆が笑うと一緒に、噴き出したくなるのを、我慢できなかったほど、好い気味だ、とおもいましたが、それから、暫くして、ぼくは、森さんより、もっとひどい失敗をやってしまったのです。
 出発の前々夜、合宿引上げの酒宴が、おわると、皆は三々五々、芸者買いに出かけてしまい、残ったのは、また、舵の清さん、七番の坂本さん、それと、ぼくだけになってしまいました。ぼくも、遊びに行こうとは思っておりましたが、ともあれ東京に実家があるので、一度は荷物…

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