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汽笛
きてき
作品ID716
著者佐左木 俊郎
文字遣い新字新仮名
底本 「見えない機関車 鮎川哲也編」 光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年10月20日
入力者奥本潔
校正者田尻幹二
公開 / 更新1999-02-04 / 2014-09-17
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 改札孫の柴田貞吉は一昼夜の勤務から解かれて交代の者に鋏を渡した。朝の八時だった。彼は線路伝いに信号所の横を自宅へ急いだ。
「おーい! 馬鹿に急いで帰るなあ」
 信号所の中から声をかけたのは彼と同じ囲いの官舎にいる西村だった。彼は振り返って微笑んだ。突然で言葉が出なかったのだ。
「細君はどうなんだ? 幾分かはいいのか?」
「同じことですね。起きてはいますけれど……」
「起きてるのなら、散歩にでも連れて出てみるんだな。あんまり家の中にばかりいるのも、身体のためじゃないぜ」
 西村はそう言いながら転轍機の傍へ近付いて行った。
「今夜は七時の交代でしょう? 早く帰って闘球をしに来ませんか? 西村さん」
 貞吉は、頭の中で、自身の若い細君をどうして悦ばせたらいいかと、そればかり考えているのだった。
「行くがね。しかし君のところの細君は闘球盤なんか絶対に駄目だよ。あんな屈んで胸を圧迫するようなことは全然いけないね。まあ今日は昼のうちに散歩に連れて行きたまえ。悪いことは言わないから」
 西村はまた次の信号に掛からねばならなかった。
「え。連れて行くつもりなんです」
 貞吉は子供らしい動作で軌条の上を歩き出した。足を踏み外さないようにと用心する動作は過去の記憶を蘇らすのだった。
 ――今の妻の家の前を、彼女が窓から観ていることを意識しながら、口笛を吹き鳴らし、綱渡りの格好で軌条の上を渡り歩いたころを。その窓からは、あの秋子の蒼白い顔ばかりでなく、父親の吉川機関手が、真っ黒い髯面を覗けていることがあったことを。

 柴田貞吉は秋子を連れて官舎を出て行った。
 鉄道線路の高土堤が町端れの畑の中を走っていた。さながら町の北側に立ち回した緑色の屏風だった。長い緑の土堤には晩春の陽光がいっぱいに当たっていた。その下は土を取った赭土の窪地。歳を取ったどすぐろい汚水、死に馬の眼のような水溜まりだった。水面には棒切れや藁屑が浮いていた。岸に幾株かの青い若葉の猫柳。叢の中からは折り折り蛙が飛び込んだ。鈍い水の音を立てて。
 清新な暖かい気流、麗らかな陽光。静かに青波を打つ麦畑。煤煙に汚れた赤煉瓦の建物が、重々しく麦畑の上に、雄牛のように横たわっていた。白い煙突からは黒い煙が渦を巻いて立ちのぼった。そしてだんだんと赤味を帯びながら悠長にたな引くのだった。
 彼等二人は青草の土堤に腰と背とを当て暖かな陽光にひたった。
「どうだ。あの煙は? この町は空気が悪いんだね」
 貞吉と秋子とは視線を揃えて工場の煙突から立ちのぼる黒煙に向けた。
「どうかして転地でもしなければいけないね。秋ちゃんの家から半分出してくれないかな。そしてどこか空気のいい海岸へでも転地していれば……」
「まだ結婚さえ許してくれないのですもの。それよりも、お父さんが私達の結婚を許して下さるといいと思うわ。そしたら、私、死んでもいい…

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