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接吻を盗む女の話
せっぷんをぬすむおんなのはなし
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「佐左木俊郎選集」 英宝社
1984(昭和59)年4月14日
入力者大野晋
校正者しず
公開 / 更新1999-09-16 / 2014-09-17
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一 街裏の露地で

 社は五時に退けることになっていた。
 併し、鈴木三枝子は大抵の日を六時か六時半まで社に残るのだった。別に仕事はしなくてもタイム・レコードで居残り割増金をくれることになっているからだった。
 鈴木三枝子は、昼の仕事をなるべく残すようにして置いて、居残りの時間をつくるようにした。地方の読者への勧誘状を書いたり、問い合わせに対する返事を書いたりして、彼女はどうかすると、八時頃まで残ることさえあった。
 或る出版会社に勤める彼女の僅かばかりの月給では、夫の失職中、そうでもしなければ、一家の生活を支えてゆくことがとても出来ないのだった。
 その日も三枝子は七時まで社にいた。日曜の前日という気持ちから、余計に働いて帰るつもりなのだった。
 社を出るときには、電燈の光がなければもう暗かった。彼女はそれから市ヶ谷見付に出て、新宿までは省線、それから京王電車で初台まで行くのであったが、満員の電車は、十時間あまりの労働でひどく疲れている彼女の上に、なお同じほどの疲労を押し付けずには置かなかった。
 彼女の家は停車場から六七町ほどのところにあった。そこで、彼女の、今年四つになる女の子と、頭の白い母親とが食卓を前にして彼女の帰りを待っているのだった。
 彼女は急いだ。最早今夜も、母親は恵子を膝の上に乗せて、白い頭を振り振り、身体を揺す振りながら、「お母ちゃん、帰るかと、見て来よかあ? 門に出て、お母ちゃん、見ていよかあ?」を唄っている頃だった。彼女は疲れた足を急がした。
 明るい商店続きの町を出外れると、そこから二三町ほどの間は、分譲住宅地として取り残されている荒れ野原だった。三枝子はそこを斜めに横切るのだった。秋草の上には夜霧が最早しっとりおりていた。そして秋蟲がその中に鳴いていた。
 荒れ野原はすぐに小住宅区域に続いていた。その住宅区域の表の方は、また、明るい商店の軒並み町になっていて、彼女は、その間の露路を這入らねばならなかった。
 彼女は、ここまで来ると、いつもの癖で、母親が「お母ちゃん帰るかと、見て来よかあ?」という子守唄を歌ってはいないかと、耳を立てるようにした。――その子守唄は、彼女の家の、寂しさの象徴だった。職を漁りに出た夫もまだ帰って来ないとき、そして恵子が母親を待ち兼ねたとき、母親もまた餌を運んで来る子供達が待ちきれなくなって、恵子を慰めると同時に自分自身をも慰めずにはいられなくなって歌う唄なのだったから。
「接吻をして頂戴よ。ねえ! 接吻をして頂戴よう。」
 おや、まあ! と三枝子は、低声に呟くようにして、自分の耳を疑わずにはいられなかった。
「ねえ! 接吻をして頂戴よう。厭なの? 厭ならいいわ。」
 三枝子は驚異と、一種の恐怖とを感じないではいられなかった。無論それは自分の家からして来た声ではなかったが、まだ人通りのある宵の裏…

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