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並木
なみき
作品ID840
著者島崎 藤村
文字遣い新字新仮名
底本 「旧主人・芽生」 新潮文庫、新潮社
1969(昭和44)年2月15日
初出「文芸倶楽部」1907(明治40)年6月
入力者紅邪鬼
校正者伊藤時也
公開 / 更新1999-12-11 / 2014-09-17
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 近頃相川の怠ることは会社内でも評判に成っている。一度弁当を腰に着けると、八年や九年位提げているのは造作も無い。齷齪とした生涯を塵埃深い巷に送っているうちに、最早相川は四十近くなった。もともと会社などに埋れているべき筈の人では無いが、年をとった母様を養う為には、こういうところの椅子にも腰を掛けない訳にいかなかった。ここは会社と言っても、営業部、銀行部、それぞれあって、先ず官省のような大組織。外国文書の飜訳、それが彼の担当する日々の勤務であった。足を洗おう、早く――この思想は近頃になって殊に烈しく彼の胸中を往来する。その為に深夜までも思い耽る、朝も遅くなる、つい怠り勝に成るような仕末。彼は長い長い腰弁生活に飽き疲れて了った。全くこういうところに縛られていることが相川の気質に適かないのであって、敢て、自ら恣にするのでは無い、と心を知った同僚は弁護してくれる。「相川さん、遅刻届は活版摺にしてお置きなすったら、奈何です」などと、小癪なことを吐す受付の小使までも、心の中では彼の貴い性質を尊敬して、普通の会社員と同じようには見ていない。
 日本橋呉服町に在る宏壮な建築物の二階で、堆く積んだ簿書の裡に身を埋めながら、相川は前途のことを案じ煩った。思い疲れているところへ、丁度小使が名刺を持ってやって来た。原としてある。原は金沢の学校の方に奉職していて、久し振で訪ねて来た。旧友――という人は数々ある中にも、この原、乙骨、永田、それから高瀬なぞは、相川が若い時から互いに往来した親しい間柄だ。永田は遠からず帰朝すると言うし、高瀬は山の中から出て来たし、いよいよ原も家を挙げて出京するとなれば、連中は過ぐる十年間の辛酸を土産話にして、再び東京に落合うこととなる。不取敢、相川は椅子を離れた。高く薄暗い灰色の壁に添うて、用事ありげな人々と摩違いながら、長い階段を下りて行った。
 原は応接室に待っていた。
「君の出て来ることは、乙骨からも聞いたし、高瀬からも聞いた」と相川は馴々しく、「時に原君、今度は細君も御一緒かね」
「いいえ」と原はすこし改まったような調子で、「僕一人で出て来たんです。種々都合があって、家の者は彼地に置いて来ました。それにまだ荷物も置いてあるしね――」
「それじゃ、君、もう一度金沢へ帰らんけりゃなるまい」
「ええ、帰って、家を片付けて、それから復た出て来ます」
「そいつは大変だね。何しろ、家を移すということは容易じゃ無いよ――加之に遠方と来てるからなあ」
 相川は金縁の眼鏡を取除して丁寧に白い[#挿絵]子で拭いて、やがてそれを掛添えながら友達の顔を眺めた。
「相川君、まだ僕は二三日東京に居る積りですから、いずれ御宅の方へ伺うことにしましょう」こう原は言出した。「いろいろ御話したいこともある」
「では、君、こうしてくれ給え。明日午前に僕の家へやって来てくれ給え。久し振でゆ…

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