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赤い着物
あかいきもの
作品ID903
著者横光 利一
文字遣い新字新仮名
底本 「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」 岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年8月17日
初出「文藝春秋」1924(大正13)年6月号
入力者大野晋
校正者伊藤祥
公開 / 更新1999-07-09 / 2021-10-09
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 村の点燈夫は雨の中を帰っていった。火の点いた献灯の光りの下で、梨の花が雨に打たれていた。
 灸は闇の中を眺めていた。点燈夫の雨合羽の襞が遠くへきらと光りながら消えていった。
「今夜はひどい雨になりますよ。お気をおつけ遊ばして。」
 灸の母はそう客にいってお辞儀をした。
「そうでしょうね。では、どうもいろいろ。」
 客はまた旅へ出ていった。
 灸は雨が降ると悲しかった。向うの山が雲の中に隠れてしまう。路の上には水が溜った。河は激しい音を立てて濁り出す。枯木は山の方から流れて来る。
「雨、こんこん降るなよ。
 屋根の虫が鳴くぞよ。」
 灸は柱に頬をつけて歌を唄い出した。蓑を着た旅人が二人家の前を通っていった。屋根の虫は丁度その濡れた旅人の蓑のような形をしているに相違ないと灸は考えた。
 雨垂れの音が早くなった。池の鯉はどうしているか、それがまた灸には心配なことであった。
「雨こんこん降るなよ。
 屋根の虫が鳴くぞよ。」
 暗い外で客と話している俥夫の大きな声がした。間もなく、門口の八つ手の葉が俥の幌で揺り動かされた。俥夫の持った舵棒が玄関の石の上へ降ろされた。すると、幌の中からは婦人が小さい女の子を連れて降りて来た。
「いらっしゃいませ。今晩はまア、大へんな降りでこざいまして。さア、どうぞ。」
 灸の母は玄関の時計の下へ膝をついて婦人にいった。
「まアお嬢様のお可愛らしゅうていらっしゃいますこと。」
 女の子は眠むそうな顔をして灸の方を眺めていた。女の子の着物は真赤であった。灸の母は婦人と女の子とを連れて二階の五号の部屋へ案内した。灸は女の子を見ながらその後からついて上ろうとした。
「またッ、お前はあちらへ行っていらっしゃい。」と母は叱った。
 灸は指を食わえて階段の下に立っていた。田舎宿の勝手元はこの二人の客で、急に忙しそうになって来た。
「三つ葉はあって?」
「まア、卵がないわ。姉さん、もう卵がなくなってしまったのね。」
 活気よく灸の姉たちの声がした。茶の間では銅壺が湯気を立てて鳴っていた。灸はまた縁側に立って暗い外を眺めていた。飛脚の提灯の火が街の方から帰って来た。びしょ濡れになった犬が首を垂れて、影のように献燈の下を通っていった。
 宿の者らの晩餐は遅かった。灸は御飯を食ぺてしまうともう眠くなって来た。彼は姉の膝の上へ頭を乗せて母のほつれ毛を眺めていた。姉は沈んでいた。彼女はその日まだ良人から手紙を受けとっていなかった。暫くすると、灸の頭の中へ女の子の赤い着物がぼんやりと浮んで来た。そのままいつの間にか彼は眠ってしまった。
 翌朝灸はいつもより早く起きて来た。雨はまだ降っていた。家々の屋根は寒そうに濡れていた。鶏は庭の隅に塊っていた。
 灸は起きると直ぐ二階へ行った。そして、五号の部屋の障子の破れ目から中を覗いてみたが、蒲団の襟から出ている丸髷とかぶ…

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