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罪過論
ざいかろん
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 96 文藝評論集」 筑摩書房
1973(昭和48)年7月10日
入力者j.utiyama
校正者八巻美恵
公開 / 更新1998-03-24 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 罪過の語はアリストテレスが、之を悲哀戯曲論中に用ひしより起原せるものにして、独逸語の所謂「シウルド」是なり。日本語に之を重訳して罪過と謂ふは稍々穏当ならざるが如しと雖も、世にアイデアル、リアルを訳して理想的、実写的とさへ言ふことあれば、是れ亦差して咎むべきにあらず。
 吾人をして若し罪過の定義を下さしめば、簡明に左の如く謂はんと欲す。曰く、
 罪過とは悲哀戯曲中の人物を悲惨の境界に淪落せしむる動力(源因)なり
と。此動力(源因)は即ち術語の罪過にして、世俗の所謂過失及び刑法の所謂犯罪等と混同すべからず。例之ば茲に曲中の人物が数奇不過不幸惨憺の境界に終ることありと仮定せよ。其境界に迫るまでには其間必ずやソレ相応の動力なかるべからず。語を変へて之を言へば闘争、欝屈、不平、短気、迷想、剛直、高踏、逆俗等ありて数奇不遇不幸惨憺の境界に誘ふに足る源因なかるべからず。罪過は即ち結果に対する源因を言ふなり、末路に対する伏線を言ふなり。此伏線此源因は如何にして発表せしむべきや。言ふまでもなく主人公其人と客観的の気運との争ひを写すに在り。此争ひの為めに主人公知らず/\自然の法則に背反することもあるべし。国家の秩序に抵触することもあるべし。蹉跌苦吟自己の驥足を伸ばし能はざることもあるべし。零落不平素志を達せずして終に道徳上世に容れられざる人となることもあるべし。憤懣短慮終に自己の名誉を墜すこともあるべし。曾つて之を争ひしが為めにワルレンスタインは悲苦の境界に沈淪したり。マクベスは間接に道徳に抵触したる所業をしたり。天神記の松王は我愛子を殺したり。娘節用の小三は義利の刀に斃れたり。信長の本能寺に弑せらるゝ、光秀の小栗栖に刺さるゝ、義貞の敗績に於ける、義経の東走に於ける、皆罪過なくんばあらず。吾人は断言せんと欲す、曰く、世に罪過なくして不幸の末路に終るものは之れなしと。人或は曰はん、キリストは罪過なくして無惨の死を遂げたりと。然れども吾人詩学的の眼を以つて之を視るときは、キリストと雖も明白なる罪過あるなり。彼はユダヤ人の気風習慣に逆ひ、時俗に投ぜざる、時人の信服を買ふ能はざる説を吐けり。是れ彼が無惨の死に終りし動力なり、源因なり、伏線なり。別言すれば彼は術語の罪過を犯せしものなり。孔子の饑餓に苦められしことあるも、孟子が轗軻不遇に終りしも、帰する所は同一理なり。
 吾人が悲哀戯曲に対するの意見此の如し。若し世間に罪過は悲哀戯曲に不必要なりと言ふ者あらば、吾人は其暴論に驚かずんばあらず。又罪過は戯曲のみにあるべきものにして決して小説にあるべからずと言ふ者あらば、吾人は別論として猶ほ其誤謬を駁せんと欲するなり。
 鴎外漁史は曾つてS・S・S・社を代表して「しがらみ艸紙」の本領を論ぜしことあり。中に言へるあり、曰く、
 伝奇の精髄を論じてアリストテレスの罪過論を唯一の規則とするは既に偏…

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