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半七捕物帳
はんしちとりものちょう
作品ID966
副題09 春の雪解
09 はるのゆきどけ
著者岡本 綺堂
文字遣い新字新仮名
底本 「「時代推理小説 半七捕物帳(一)」」 光文社時代小説文庫、光文社
1985(昭和60)年11月20日
入力者tatsuki
校正者おのしげひこ
公開 / 更新1999-06-27 / 2014-09-17
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「あなたはお芝居が好きだから、河内山の狂言を御存知でしょう。三千歳の花魁が入谷の寮へ出養生をしていると、そこへ直侍が忍んで来る。あの清元の外題はなんと云いましたっけね。そう、忍逢春雪解。わたくしはあの狂言を看るたんびに、いつも思い出すことがあるんですよ」と、半七老人はつづけて話した。「勿論お話の筋道はまるで違いますがね。舞台は同じ入谷田圃で、春の雪のちらちら降る夕方に、松助の丈賀のような按摩が頭巾をかぶって出て来る、その場面の趣があの狂言にそっくりなんですよ。まあ、聴いてください。わたくしの方は素話で、浜町の太夫さんの粋な喉を聴かせるなんていうわけには行かないんですから、お話に艶はありませんがね」
 慶応元年の正月の末であった。神田から下谷の竜泉寺前まで用達に行った半七は、七ツ半(午後五時)頃に先方の家を出ると、帰り路はもう薄暗くなっていた。春といっても此の頃の日はまだ短いのに、きょうは朝から空の色が鼠に染まって、今にも白い物がこぼれ落ちそうな暗い寒い影に掩われているので、取り分けて夕暮が早く迫って来たように思われた。先方でも傘を貸してやろうと云ってくれたが、家へ帰るまで位はどうにか持ちこたえるだろうと断わって、半七はふところ手でそこを出ると、入谷田圃へさしかかる頃には、鶴の羽をむしったような白い影がもう眼先へちらついて来たので、半七は手拭を出して頬かむりをして、田圃を吹きぬける寒い風のなかを突っ切って歩いた。
「ちょいと、徳寿さん。おまえさんも強情だね。まあ、ちょいと来ておくれと云うに……」
 女の声が耳にはいったので、半七はふと見かえると、どこかの寮らしい風雅な構えの門の前で、年頃は二十五六の仲働きらしい小粋な女が、一人の按摩の袂をつかんで曳き戻そうとしているのであった。
「お時さん。いけませんよ。きょうはこれから廓にお約束があるんですから、まあ堪忍しておくんなさいよ」と、按摩は逃げるように振り切って行こうとするのを、お時という女はまた曳き戻した。
「それじゃああたしが困るんだからさ。按摩さんはほかにも大勢あるけれども、花魁はお前さんが御贔屓で、ほかの人じゃあいけないと云うんだから、素直に来てくれないと、あたしが全く困るんだよ」
「御贔屓にして下さるのはまことにありがたいことで、いつもお礼を申しているのでございますが、きょうは何分にも前々からのお約束がありますので……」
「嘘をおつきよ、お前さんは此の頃毎日そんなことを云っているんだもの。花魁だってあたしだって本当に思うかね。ぐずぐず云ってないで早く来ておくれよ。焦れったい人だねえ」
「でも、いけませんよ。まったくきょうばかりは堪忍して下さい」
 どっちもなかなか強情で、容易に埒が明きそうにもなかった。しかし格別に面白そうな事件でもないので、半七は好い加減に聞き流して通り過ぎた。雪は景色ばかりで、家…

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