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護持院原の敵討
ごじいんがはらのかたきうち
作品ID1054
著者森 鴎外
文字遣い新字新仮名
底本 「山椒大夫・高瀬舟」 新潮文庫、新潮社
1968(昭和43)年5月30日、1985(昭和60)年6月10日41刷改版
初出「ホトトギス」1913(大正2)年10月
入力者砂場清隆
校正者菅野朋子
公開 / 更新2000-10-17 / 2014-09-17
長さの目安約 44 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 播磨国飾東郡姫路の城主酒井雅楽頭忠実の上邸は、江戸城の大手向左角にあった。そこの金部屋には、いつも侍が二人ずつ泊ることになっていた。然るに天保四年癸巳の歳十二月二十六日の卯の刻過の事である。当年五十五歳になる、大金奉行山本三右衛門と云う老人が、唯一人すわっている。ゆうべ一しょに泊る筈の小金奉行が病気引をしたので、寂しい夜寒を一人で凌いだのである。傍には骨の太い、がっしりした行燈がある。燈心に花が咲いて薄暗くなった、橙黄色の火が、黎明の窓の明りと、等分に部屋を領している。夜具はもう夜具葛籠にしまってある。
 障子の外に人のけはいがした。「申し。お宅から急用のお手紙が参りました」
「お前は誰だい」
「お表の小使でございます」
 三右衛門は内から障子をあけた。手紙を持って来たのは、名は知らぬが、見識った顔の小使で、二十になるかならぬの若者である。
 受け取った封書を持って、行燈の前にすわった三右衛門は、先ず燈心の花を落して掻き立てた。そして懐から鼻紙袋を出して、その中の眼鏡を取って懸けた。さて上書を改めたが、伜宇平の手でもなければ、女房の手でもない。ちょいと首を傾けたが、宛名には相違がないので、とにかく封を切った。手紙を引き出して披き掛けて、三右衛門は驚いた。中は白紙である。
 はっと思ったとたんに、頭を強く打たれた。又驚く間もなく、白紙の上に血がたらたらと落ちた。背後から一刀浴せられたのである。
 夜具葛籠の前に置いてあった脇差を、手探りに取ろうとする所へ、もう二の太刀を打ち卸して来る。無意識に右の手を挙げて受ける。手首がばったり切り落された。起ち上がって、左の手でむなぐらに掴み着いた。
 相手は存外卑怯な奴であった。むなぐらを振り放し科に、持っていた白刃を三右衛門に投げ付けて、廊下へ逃げ出した。
 三右衛門は思慮の遑もなく跡を追った。中の口まで出たが、もう相手の行方が知れない。痛手を負った老人の足は、壮年の癖者に及ばなかったのである。
 三右衛門は灼けるような痛を頭と手とに覚えて、眩暈が萌して来た。それでも自分で自分を励まして、金部屋へ引き返して、何より先に金箱の錠前を改めた。なんの異状もない。「先ず好かった」と思った時、眩暈が強く起こったので、左の手で夜具葛籠を引き寄せて、それに靠り掛かった。そして深い緩い息を衝いていた。

 物音を聞き附けて、最初に駆け附けたのは、泊番の徒目附であった。次いで目附が来る。大目附が来る。本締が来る。医師を呼びに遣る。三右衛門の妻子のいる蠣殻町の中邸へ使が走って行く。
 三右衛門は精神が慥で、役人等に問われて、はっきりした返事をした。自分には意趣遺恨を受ける覚は無い。白紙の手紙を持って来て切って掛かった男は、顔を知って名を知らぬ表小使である。多分金銀に望を繋けたものであろう。家督相続の事を宜しく頼む。敵を討ってくれるように、…

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