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金春会の「隅田川」
こんぱるかいの「すみだがわ」
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「芥川龍之介全集 第十一巻」 岩波書店
1996(平成8)年9月9日発行
初出「女性」1924(大正13)年3月
入力者もりみつじゅんじ
校正者松永正敏
公開 / 更新2002-10-06 / 2014-09-17
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 僕は或早春の夜、富士見町の細川侯の舞台へ金春会の能を見に出かけた。と云ふよりも寧ろ桜間金太郎氏の「隅田川」を見に出かけたのである。
 僕の桟敷へ通つたのは「花筐」か何かの済んだ後、「隅田川」の始まらない前のことである。僕は如何なる芝居を見ても、土間桟敷に満ちた看客よりも面白い芝居に出会つたことはない。尤も僕の友達の書いた、新らしい芝居は例外である。さう云ふ芝居を見る時には、大抵看客などは忘れてしまふ。なぜと云へば同じ桝に彼自身の芝居を見てゐる作者は看客よりも面白い見ものだからである。――が、そんなことはどうでも好い。兎に角芝居の看客は芝居よりも面白いのを常としてゐる。能もやはりこの例に洩れない。この頃の能の看客はお嬢さんを大勢まじへてゐる。その又お嬢さんは一人残らず、小さい欠伸を噛み殺しながら、荘厳なる威儀を正してゐる。おまけに今夜の看客はお嬢さんの多いばかりではない。僕の左右にはまるまると肥つた仏蘭西の大使クロオデル氏を始め、男女の西洋人も五六人、オペラ・グラスなどを動かしてゐる。僕は「隅田川」を見ないうちに、かう云ふドオミヱの一枚じみた看客を見ることに満足した。勿論僕自身も諷刺画の中の一人になることは覚悟の前である。
「隅田川」は静かに始まつた。この「静かに」は有無を問はない通り一遍の形容詞ではない。「是は武蔵の国隅田川の渡し守にて候」と云ふ宝生新氏の詞と共に、天さかる鄙の大川の縹渺と目の前に浮び上がる所は如何にも静かに出来上がつてゐる。僕は一陣の風の中に餌ものを嗅ぎつけた猟犬のやうに、かすかな戦慄の伝はるのを感じた。――と云ふと偉らさうに聞えるかも知れない。が、実は謡も習はず、能に関する智識などは全然持ち合はせてゐないのだから、当てにならないのは勿論である。しかし短い新氏の詞は確かに僕に戦慄を与へた。のみならずそれは経験によれば、芸術的興奮の襲来を予め警告する烽火だつた。これだけは誰が何と云つても、僕にだけは間違ひのない事実である。
 その次には、若い旅人が一人、そろそろ橋がかりへかかり出した。この人は何と云ふ能役者か覚えてゐないのは残念である。が、如何にも「雲霞、あと遠山に越えなして/\、いく関々の道すがら、国々過ぎて」来たやうに、肉づきの悪い青年だつた。新氏の渡し守は堂堂としてゐる。ああ云ふ妙に男ぶりの好い、でつぷり肥つた渡し守は古往今来隅田川に舟などを漕いでゐた筈はない。しかもその堂堂とした渡し守を不調和とも何とも感じないのは丁度歌舞伎の火入りの月を不調和と感じないのも同じことである。能は歌舞伎よりも又一層写実の世界にこだはつてゐない。紛紛たる現実性の不足などは忽ち詩の中に消滅してしまふ。けれども現実性の過剰だけは逆に舞台のイリュウジョンを破壊する力を具へてゐる。僕はこの痩せた旅人の姿に聊か現実性の過剰を感じた。つまり旅人は業平以来の隅田川の渡…

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