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『聖書』の権威
せいしょのけんい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆 別巻100 聖書」 作品社
1999(平成11)年6月25日
初出「新潮」1916(大正5)年10月号
入力者加藤恭子
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2005-05-14 / 2014-09-18
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)
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本文より




 私には口はばったい云い分かも知れませんが聖書と云う外はありません。聖書が私を最も感動せしめたのは矢張り私の青年時代であったと思います。人には性の要求と生の疑問とに、圧倒される荷を負わされる青年と云う時期があります。私の心の中では聖書と性慾とが激しい争闘をしました。芸術的の衝動は性欲に加担し、道義的の衝動は聖書に加担しました。私の熱情はその間を如何う調和すべきかを知りませんでした。而して悩みました。その頃の聖書は如何に強烈な権威を以て私を感動させましたろう。聖書を隅から隅にまですがりついて凡ての誘惑に対する唯一の武器とも鞭撻とも頼んだその頃を思いやると立脚の危さに肉が戦きます。
 私の聖書に対する感動はその後薄らいだでしょうか。そうだとも云えます。そうでないとも云えます。聖書の内容を生活としっかり結び付けて読む時に、今でも驚異の眼を張り感動せずに居られません。然し今私は性欲生活にかけて童貞者でないように聖書に対してもファナティックではなくなりました。是れは悪い事であり又いい事でした。楽園を出たアダムは又楽園に帰る事は出来ません。其処には何等かの意味に於て自ら額に汗せねばならぬ生活が待って居ます。私自身の地上生活及び天上生活が開かれ始めねばなりません。こう云う所まで来て見ると聖書から嘗て得た感動は波の遠音のように絶えず私の心耳を打って居ます。神学と伝説から切り放された救世の姿がおぼろながら私の心の中に描かれて来るのを覚えます。感動の潜入とでも云えばいいのですか。

 何と云っても私を強く感動させるものは大きな芸術です。然し聖書の内容は畢竟凡ての芸術以上に私を動かします。芸術と宗教とを併説する私の態度が間違って居るのか、聖書を一箇の芸術とのみ見得ない私が間違って居るのか私は知りません。
(大正五年十月)



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