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妣が国へ・常世へ
ははがくにへ・とこよへ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 2」 中央公論社
1995(平成7)年3月10日
初出「国学院雑誌 第二十六巻第五号」1920(大正9)年5月
入力者門田裕志
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-02-29 / 2014-09-18
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一

われ/\の祖たちが、まだ、青雲のふる郷を夢みて居た昔から、此話ははじまる。而も、とんぼう髷を頂に据ゑた祖父・曾祖父の代まで、萌えては朽ち、絶えては[#挿絵]えして、思へば、長い年月を、民族の心の波の畦りに連れて、起伏して来た感情ではある。開化の光りは、わたつみの胸を、一挙にあさましい干潟とした。併し見よ。そこりに揺るゝなごりには、既に業に、波の穂うつ明日の兆しを浮べて居るではないか。われ/\の考へは、竟に我々の考へである。誠に、人やりならぬ我が心である。けれども、見ぬ世の祖々の考へを、今の見方に引き入れて調節すると言ふことは、其が譬ひ、よい事であるにしても、尠くとも真実ではない。幾多の祖先精霊をとまどひさせた明治の御代の伴大納言殿は、見飽きる程見て来た。せめて、心の世界だけでなりと、知らぬ間のとてつもない出世に、苔の下の長夜の熟睡を驚したくないものである。
われ/\の文献時代の初めに、既に見えて居た語に、ひとぐに・ひとの国と言ふのがある。自分たちのと、寸分違はぬ生活条件を持つた人々の住んで居ると考へられる他国・他郷を斥したのである。「ひと」を他人と言ふ義に使ふことは、用語例の分化である。此と幾分の似よりを持つ不定代名詞の一固りがある。「た(誰)」・「いつ(=いづ)」・「なに(何)」など言ふ語は、未経験な物事に冠せる疑ひである。ついでに、其否定を伴うた形を考へて見るがよい。「たれならなくに」・「いづこはあれど(=あらずあれど)」・「何ならぬ……」などになると、経験も経験、知り過ぎる程知つた場合になつて来る。言ひ換へれば、疑ひもない目前の事実、われ・これ・こゝの事を斥すのである。たれ・いつ・なにが、其の否定文から引き出されて示す肯定法の古い用語例は、寧、超経験の空想を対象にして居る様にも見える。われ・これ・こゝで類推を拡充してゆけるひとぐに即、他国・他郷の対照として何その国・知らぬ国或は、異国・異郷とも言ふべき土地を、昔の人々も考へて居た。われ/\が現に知つて居る姿の、日本中の何れの国も、万国地図に載つたどの島々も皆、異国・異郷ではないのである。唯、まる/\の夢語りの国土は、勿論の事であるが、現実の国であつても、空想の緯糸の織り交ぜてある場合には、異国・異郷の名で、喚んでさし支へがないのである。
われ/\の祖々が持つて居た二元様の世界観は、あまり飽気なく、吾々の代に霧散した。夢多く見た人々の魂をあくがらした国々の記録を作つて、見はてぬ夢の跡を逐ふのも、一つは末の世のわれ/\が、亡き祖々への心づくしである。
心身共に、あらゆる制約で縛られて居る人間の、せめて一歩でも寛ぎたい、一あがきのゆとりでも開きたい、と言ふ解脱に対する[#挿絵][#挿絵]が、芸術の動機の一つだとすれば、異国・異郷に焦るゝ心持ちと似すぎる程に似て居る。過ぎ難い世を、少しでも善くし…

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