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紀行文家の群れ
きこうぶんかのむれ
副題――田山花袋氏――
たやまかたいし
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「アルピニストの手記」 平凡社ライブラリー、平凡社
1996(平成8)年12月15日
入力者大野晋
校正者伊藤時也
公開 / 更新2000-11-27 / 2014-09-17
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)
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本文より




 明治文壇には、紀行文家と称せられる一群の顔ぶれがあった。根岸派では、饗庭篁村が先達で、八文字舎風の軽妙洒脱な紀行文を書き『東京朝日』の続きものとして明日を楽しませた。幸田露伴にも『枕頭山水』の名作があり、キビキビした筆致で、自然でも、人間でも、片っぱしからきめつけるような犀利な文章を書いている。しかしこのご両人は、あまりに老大家であって、「一群」からは、かけ離れていた。一群の人たちは、遅塚麗水、大町桂月、江見水蔭、田山花袋、久保天随、坪谷水哉などであるが、花袋が紀行文家と言われた時分は、自然派文学勃興以前のことで、文章に感傷癖はあったが、淡泊清新、ことに武蔵野あたりの原野や雑木林の寂しさを、淡彩的に点描するのに巧みであった。武蔵野といえば、ただちに独歩の名作が連想されるが、花袋も紀行文家として「野の人」であった、武蔵野の人であった。私はなんのかのと、不足は言いながらも、しんみりと落ち着いた心持ちで、花袋が読めた。自然派勃興以後の花袋自身は、おそらく「こんなもの」と言うかもしれないが、私のすきな花袋は、やはり情緒綿々たる紀行文家の花袋である。
 しかし直接に文通したのは、少しく金の入用があったので、白峰の紀行文を、花袋を通じて『太陽』に寄せたときが初めてであった。おかげで明治三十七年二月の『太陽』に掲載せられたのはいいが、どうしたものか、博文館から原稿料を送ってよこさない。「武士は食わねど高楊子」主義で突っぱった当時の青年文士は、いいかげんシビレを切らしても、原稿料の催促はしたくなかった。しかるにその年の秋も過ぎて、いよいよ手元切迫に及んだので、からめ手から催促するような手紙をやった。すると花袋からすぐ返事が来た。

 拝啓 最早とうに稿料差上候事と存居候ひしに御手紙にて始めて知り、大に驚き申候、二三日の中に博文館の方にまゐるべく候間其節編輯記者に相話し早速御送金いたすやう取計らひ申すべく、不知とは申しながら怠慢の罪免るべからざることと存候、何卒不悪御思召被下度候、追々年もさし迫りさぞ御忙しきことと存候、大日本地誌は先日も紫紅兄の横浜通なる眼光を以て批評せられ大にヘコミ居申候ことに御座候、先づは御返事まで[#挿絵]々不一
 烏水大兄 九日
花袋

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