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ウォーソン夫人の黒猫
ウォーソンふじんのくろねこ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「猫町 他十七篇」 岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年5月16日
初出「文藝春秋」1929(昭和4)年7月号
入力者大野晋
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2001-10-11 / 2016-01-17
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ウォーソン夫人は頭脳もよく、相当に教育もある婦人であった。それで博士の良人が死んで以来、或る学術研究会の調査部に入り、図書の整理係として働らいていた。彼女は毎朝九時に出勤し、午後の四時に帰宅していた。多くの知識婦人に見る範疇として、彼女の容姿は瘠形で背が高く、少し黄色味のある皮膚をもった神経質の女であった。しかし別に健康には異状がなく、いつも明徹した理性で事務を整理し、晴れやかの精神でてきぱきと働らいていた。要するに彼女は、こうした職業における典型的の婦人であった。
 或る朝彼女は、いつも通りの時間に出勤して、いつも通りの事務を取っていた。一通り仕事がすんだ後で、彼女はすっかり疲労を感じていた。事務室の時計を見ると、丁度四時五分を指しているので、彼女は卓上の書類を片づけ、そろそろ帰宅する準備を始めた。彼女は独身になってから、或る裏町の寂しい通りで、一間しかない部屋を借りていたので、余裕もなく装飾もない、ほんとに味気ない生活だった。いつでも彼女は、午後の帰宅の時間になると、その空漠とした部屋を考え、毎日毎日同じ位地に、変化もなく彼女の帰りを待ってる寝台や、窓の側に極りきってる古い書卓や、その上に載ってる退屈なインキ壺などを考え、言いようもなく味気なくなり、人生を憂鬱なものに感ずるのだった。
 この日もまた、そのいつも通りの帰宅の時間に、いつも通りの空虚な感情が襲って来た。だがそうした気分の底に、どこか或る一つの点で、いつもとちがった不思議の予感が、悪寒のようにぞくぞくと感じられた。彼女の心に浮んだものは、いつものような退屈な部屋ではなく、それよりももっと悪い、厭やな陰鬱なものが隠れている、不快な気味のわるい部屋であった。その圧迫する厭やな気分は、どんなにしても自分の家に、彼女を帰らせまいとするほどだった。けれども結局、彼女は重たい外套を着て、いつも通りの家路をたどって行った。
 部屋の戸口に立った時、彼女は何物かが室の中に、明らかにいることを直感した。いつ、どこから、だれがこの部屋に這入って来て、自分の留守にいるのだろう。そうした想像の謎の中で、得体のわからぬ一つの予感が、疑いを入れない確実さで、益[#挿絵]はっきりと感じられた。「確かに。何物かがいる。いるに相違ない。」彼女はためらった。そして勇気を起し、一息に扉を開けひらいた。
 部屋の中には、しかし一人の人間の姿もなかった。室内はひっそりとしており、いつものように片づけられていた。どこにも全く、少しの変ったこともなかった。けれどもただ一つ、部屋の真中の床の上へ、見知らぬ黒猫が坐り込んでいた。その黒猫は大きな瞳をして、じっと夫人をみつめていた。置物のように動かないで、永遠に静かな姿勢をしてうずくまっていた。
 夫人は猫を飼っておかなかった。もちろんその黒猫は、彼女のいない留守の間に、他所から紛れ込んだもの…

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