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河沙魚
かわはぜ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「ちくま日本文学全集 林芙美子」 筑摩書房
1992(平成4)年12月18日
初出「人間」1947(昭和22)年1月
入力者土屋隆
校正者松永正敏
公開 / 更新2007-11-28 / 2014-09-21
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 空は暗く曇って、囂々と風が吹いていた。水の上には菱波が立っていた。いつもは、靄の立ちこめているような葦の繁みも、からりと乾いて風に吹き荒れていた。ほんの少し、堤の上が明るんでいるなかで、茄子色の水の風だけは冷たかった。千穂子は釜の下を焚きつけて、遅い与平を迎えかたがた、河辺まで行ってみた。――どんなに考えたところで解決もつきそうにはなかったけれども、それかと云って、子供を抱えて死ぬには、世間に対してぶざまであったし、自分一人で死ぬのは安いことではあったけれども、まだ籍もなく産院に放っておかれている子供が、不憫でもあった。
 吹く風は荒れ狂い、息が塞りそうであった。菱波立っている水の上には、大きい星が出ていた。河へ降りてゆく凸凹の石道には、両側の雑草が叩きつけられている。岸辺へ出ると、いつもは濡れてぬるぬるしている板橋も乾いて、ぴよぴよと風に軋んでいた。
 窓ガラスのように、堤ぎわの空あかりが、茜色に棚引き光っていた。小さい板橋を渡って、昏い水の上を透かしてみると、与平が水の中に胸にまでつかって向うをむいていた。
「おじいちゃん!」
 風で声がとどかないのか、渦を巻いているような水のなかで、与平は黙然と向うを向いたままでいる。口もとに手をやって乗り出すような恰好で千穂子がもう一度、大きい声で呼んだ。ずうんと水に響くような声で、おおうと、与平がゆっくりこっちを振り返った。
「もうご飯だよッ」
「うん……」
「どうしたンだね、水の中へはいってさ。冷えちまうじゃないかね……」
 与平はさからう水を押しわけるようにして、左右に大きく躯をゆすぶりながら、水ぎわに歩いて来た。棚引いていた茜色の光りは沈み、与平の顔がただ、黒い獣のように見える。なまぐさい藻の匂いがする。近間で水鳥が鳴いている。与平が水のなかに這入りこんでいたのが、千穂子には何となく不安な気持ちだった。
「風邪をひくだアよ。おじいちゃん。無茶なことしないでね……」
「網を逃がしてしまったで、探しとったのさ」
「ふン、でも、まだ寒いのに、無理するでないよ……」
「うん、――まつは起きてるのかえ?」
「起きてなさる」
「ふうん……えらい風だぞ、夜は風になるな」
 ずぶ濡れになったまま、与平はがっしりした躯つきで千穂子の前を歩いて行く。腿のあたりに、濡れたずぼんがからみついていた。裏口の生垣に咲いているこでまりの白い花の泡が、洗濯物のように、風に吹かれていた。千穂子は走って、台所へ行き、釜の下をのぞいた。火が燃えきっていた。あわてて松葉と薪をくべると、ひどい煙の中から炎がまいたって、土間の自転車の金具が炎で赤く光った。
 千穂子は納戸から、与平のシャツと着物を取って来た。濡れたものをすっかり土間へぬぎすてて、裸で釜の前に来た与平はまるで若い男のような躯つきである。千穂子は炎に反射している与平の裸を見て、誰にともな…

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