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死のなかの風景
しのなかのふうけい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「夏の花・心願の国」 新潮文庫、新潮社
1973(昭和48)年7月30日
入力者tatsuki
校正者林幸雄
公開 / 更新2002-01-01 / 2014-09-17
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 妻が息をひきとったとき、彼は時計を見て時刻をたしかめた。
 妻の母は、念仏を唱えながら、隣室から、小さな仏壇を抱えて来ると、妻の枕許の床の間にそっと置いた。すると、何か風のようなものが彼の背後で揺れた。と、彼ははじめて悲しみがこみあげて来た。彼はこれまでに、父や母の死に遭遇していたので、人間の死がどのように取扱われるかは既によく知っていた。仏壇を見たとき、それがどっと彼の心にあふれた。それよりほかに扱われようはない死がそこにあった。苦しみの去った妻はなされるがままに床のなかに横わっているのだ。その細い手はまだ冷えきってはいなかったが、はじめて彼はこの世に置き去りにされている自分に気づいた。今は彼もなされるがままに生きている気持だった。
「僕は茫としてしまっているから、よろしく頼みます」
 葬いのことや焼場のことで手続に出掛けて行ってくれる義弟を顧みて、彼はそう云った。昨夜からの疲労と興奮が彼の意識を朧にしていた。妻のいる部屋では、今朝ほど臨終にかけつけたのに意識のあるうちには間にあわなかった神戸の義姉がいた。彼はひとり隣室に入って、煙草を吸った。障子一重隔てて、台所では義母が昼餉の仕度をしていた。(そうだったのか、これからもやはり食事が毎日ここで行われるのか)と彼はぼんやりそんなことを考えていた。……心のなかで何かが音もなく頻りに崩れ墜ちるようだった。ふと机の上にある四五冊の書籍が彼の眼にとまった。それはみな仏教の書物だった。その年の夏に文化映画社に入社して以来、機械や技術の本ばかり読まされていた彼は、ふと仏教の世界が探求してみたくなった。それは今現に無慙な戦争がこの地上を息苦しくしている時に、嘗ての人類はどのような諦感で生きつづけたのか、そのことが知りたかったからだ。だが、病妻の側で読んだ書物からは知識の外形ばかりが堆積されていたのだろう。それが今、音もなく崩れ墜ちてゆくようだった。彼はぼんやりと畳の上に蹲っていた。
 それは樹木がさかさまに突立ち、石が割れて叫びだすというような風景ではなかった。いつのまにか日が暮れて灯のついた六畳には、人々が集って親しそうに話しあっていた。……東京からやって来た映画会社の友人は、彼のすぐ横に坐っていた。ことさら悔みを云ってくれるのではなかったが、彼にはその友人が側に居てくれるというだけで気が鎮められた。床の間に置かれた小さな仏壇のまわりには、いつのまにか花が飾られて、蝋燭の灯が揺れていた。開放たれた縁側から見ると、小さな防空壕のある二坪の庭は真暗な塊りとなって蹲っていた。その闇のなかには、悲しい季節の符号がある。彼が七年前に母と死別れたのも、この季節だった。三日前に、「きょうはお母さんの命日ね」と妻は病床で何気なく呟いていたのだが。……母を喪った時も、暗い影はぞくぞくと彼のなかに流れ込んで来た。だが、それは息子としてま…

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