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或阿呆の一生
あるあほうのいっしょう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 43 芥川龍之介集」 筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日
初出「改造」1927(昭和2)年10月
入力者j.utiyama
校正者細渕紀子
公開 / 更新1998-04-23 / 2014-09-17
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。
 君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。
 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親を持つたものたちを如何にも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己弁護をしなかつたつもりだ。
 最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を剥ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。
   昭和二年六月二十日
芥川龍之介
     久米正雄君

     一 時代

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」
 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……

     二  母

 狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。広い部屋はその為に一層憂欝に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讃美歌を弾きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳ねまはつてゐた。
 彼は血色の善い医者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と変らなかつた。少しも、――彼は実際彼等の臭気に彼の母の臭気を感じた。
「ぢや行かうか?」
 医者は彼の先に立ちながら、廊下伝ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを満した、大きい硝子の壺の中に脳髄が幾つも漬つてゐた。彼は或脳髄の上にかすかに白いものを発見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴らしたのに近いものだつた。彼は医者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。
「この脳髄を持つてゐた男は××電燈会社の技師だつたがね。いつも自分を黒光りのする、大きいダイナモだと思つてゐ…

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