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柵草紙の山房論文
しがらみそうしのさんぼうろんぶん
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「森鴎外全集第七卷」 筑摩書房
1971(昭和46)年8月5日
初出「柵草紙」1891(明治24)年9月~1892(明治25)年6月
入力者網迫、土屋隆
校正者阿部哲也
公開 / 更新2012-09-09 / 2014-09-16
長さの目安約 139 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 我に問ふ、何故に久しく文を論ぜざるかと。我は反問せむとす、何故に久しく論ずべき文を出さゞるかと。我が文學上の評論をなさんといひし誓は、今やいたづら事になりなむとす。其咎果して誰が上にか歸すべき。
 露伴子はその著當世外道の面に於いて、柔弱者の口を藉りて我に戲れていはく。鴎外は技術論者にして、唯學校教師たるに適すと。是言善く我病に中れり。然れども今の世のありさまは、文を論ずる人に理を説かしむるを奈何せむ。こはわれ一人の上にはあらじ。
 近刊の新聞雜誌中、論ずべき文少からざるべし。我眼豆の如く、葡萄の如くにして未だこれを發見せず。幸に今人が文を論じたる文數篇を獲たれば、一日千朶山房に兀坐して、聊又これを論ず。

逍遙子の諸評語

小説三派(小羊漫言七一面より)及梓神子
(春廼舍漫筆一五一面より)

 さきにわれ忍月、不知庵、謫天の三人を目して新文界の批評家とせしことあり。當時は實に此三人を除きては、批評を事とする人なかりき。去年より今年(明治二十四年)にかけては、忍月居士の評漸く零言瑣語の姿になりゆき、不知庵の評は漸く感情の境より出でゝ、一種の諦視しがたき理義の道に入りはじめたり。獨り謫天情仙のみ舊に依りて、言ふこと稀なれども、中ること多からむことを求むるに似たり。この間別に注目すべき批評家二人を獲つ。そを誰とかする。逍遙子と露伴子と即是なり。並に是れ自ら詩人たる人にしあれば、いづれも阿堵中の味えも知らざる輩とは、日を同うして論ずべからざる由あらむ。われ固より善詩人は即好判者なりといふものならねど、自ら經營の難きを知るものは、猥に杓子定規うち振りて、[#挿絵]鑿その形を殊にして、相容れざるやうなる言をばいかゞ出さむ。二子の文を論ずるや、その趣相距ること遠けれど、約していへば、逍遙子は能くものを容れ、露伴子は能くものを穿つ。左に少しく逍遙子が批評眼を覗かむ。
 逍遙子の評能くものを容るとは何の謂ぞ。答へていはく。批評眼も亦哲理眼なり。人ありて哲學の一統を立つるときは、その時の人智の階級にて、及ばむ限のあらゆる事物は、合して一機關をなし、其理の動くところ、悉く其源に顧應せでは協はじ。批評も亦然なり。能くものを容るゝ批評は、其標準の完美なること想ふに堪へたり。劉海峰のいはく。居高以臨下。不至於爭。爲其不足與我角也。至於才力之均敵。而惟恐其不能相勝。於是紛紜之辨以生。是故知道者。視天下之岐趨異説。皆未甞出於吾道之外。故其心恢然有餘。夫恢然有餘。而於物無所不包。蓋逍遙子が能くものを容るゝは、その地位人より高きこと一等なればなるべし。
 逍遙子は演繹評を嫌ひて、歸納評を取り、理想標準を抛たむとする人なり。然れども子も亦我を立てゝ人の著作を評する上は、絶て標準なきこと能はじ。われ其小説三派及梓神子をみて、その取るところの方鍼を認めたり。
 逍遙子の小説三派とは何をか謂ふ。其…

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