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病院の夜明けの物音
びょういんのよあけのものおと
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦随筆集 第一巻」 岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年2月5日、1963(昭和38)年10月16日第28刷改版
初出「渋柿」1920(大正9)年3月
入力者田辺浩昭
校正者かとうかおり
公開 / 更新2003-06-04 / 2014-09-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 朝早く目がさめるともうなかなか二度とは寝つかれない。この病院の夜はあまりに静かである。二つの時計――その一つは小形の置き時計で、右側の壁にくっつけた戸棚の上にある、もう一つは懐中時計でベットの頭の手すりにつるしてある――この二つの時計の秒を刻む音と、足もとのほうから聞こえて来る付添看護婦の静かな寝息のほかには何もない。ただあまりに静かな時に自分の頭の中に聞こえる不思議な雑音や、枕に押しつけた耳に響く律動的なザックザックと物をきざむような脈管の血液の音が、注意すればするほど異常に大きく強く響いてくる。しかしそれはじきに忘れてしまって世界はもとの悠久な静寂に帰る。ところが五時ごろになると奇妙な音が聞こえだす。まず病室の長い廊下のはるかに遠いかなたで時々カチャンと物を取り落としたような音がする、それから軽くパタ/\/\とたとえば草履で廊下を歩くような音も聞こえる。これらのかすかな、しかし原因のわからない、なんだかこの世のあらゆる現実の物音とは比較のできないような雑音が不規則な間隔を置いて響いて来る。それが天井の高い、長い廊下に反響してなんとなく空虚なしかも重々しい音色に聞こえるのである。しばらく止まっているかと思うとまた始まる。そして今度は前に聞こえたとは少し違った見当に、しかも前よりはだいぶ近い所で聞こえだす。近よるに従ってこの音は前のような不思議な性質を失って、もっと平凡な現実的な音色に変わって来る。それはちょうど鉄鎚で鉄管の端を縦にたたくような音である。不意に自分のベットの足もとのほうでチョロ/\/\と水のわき出すような音がしばらくつづいて、またぱったりやむ。鉄管をたたくような音がだんだん近くなって来ると、今度は隣室との境の壁の下かと思う所で、強くせわしなくガチンガチンと鳴りだす。たとえばそれは小さいしかし恐ろしい猛獣がやけに檻にぶっつかるかと思うような音である。すると今まで鈍い眠りに包まれていた病室が急に生き生きした活気を帯びて来る。さらにこの活気に柔らかみを添えるのは、鉄をたたく音の中に交じってザブ/\ザブ/\と水のあふれ出すような音と、噴気孔から蒸気の吹き出すような、もちろんかすかであるが底に強い力と熱とのこもった音が始まる。このようないろいろの騒がしい音はしばらくすると止まって、それが次の室に移り行くころには、足もとの壁に立っている蒸気暖房器の幾重にも折れ曲がった管の中をかすかにかすかにささやいて通る蒸気の音ばかりが快い暖まりを室内にみなぎらせる。すると今まで針のように鋭くなっていた自分の神経は次第に柔らいで、名状のできない穏やかな伸びやかな心持ちが全身に行き渡る。始めて快いあくびが二つ三つつづけて出る。ちょうどそのころに枕もとのガラス窓――むやみに丈の高い、そして残忍に冷たい白の窓掛けをたれた窓の外で、キュル、キュル/\/\と、糸車を繰るような濁…

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