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文学の流れ
ぶんがくのながれ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十一巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日
初出「三田新聞」1938(昭和13)年6月10日号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-03-23 / 2014-09-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 いつの時代でも、技師や官吏になろうとする人の数より、作家になろうとする青年の数はすくなかった。今の時代は、猶そうであろう。文学を愛しつつも、作家としての生活に様々の意味で危惧を感じさせるような事情がこの二三年間にたかまって来ている。経済的な点で、作家として食えるか食えないかということであれば、明治大正から現代にかけて活動している作家の殆ど皆が、あやうい綱をわたって来ているのである。この二三年の間にたかまって来ている問題には、文学そのものの社会的な意味についての疑問というべきものが加っているのが著しい一つの特徴であると思う。日本の文学が現代の段階までに内包して来ている諸条件と、急速に変化しつつある世態とが、交互に鋭い角度で作用しあって、例えば、行動の価値と文学の本質及びその仕事に従うこととの間に、何か文学が社会的行動でないかのような、文学への献身に確信を失わせるような一種の雰囲気が揺曳しているのである。
 日本の文学は、変りつつある。生活がこのように変って来ているのであるから、文学が変らないことは寧ろあり得ない。既にその機運というか、予感は、きのうきょう以前にすべての文学を愛す者の感覚に迫って来ていたのである。
 日常生活の緊張から云っても、複雑さから云っても、刺戟のつよさから云っても、人々は文学にこれまでより肺活量の多いものを、生活力の旺なものを要求する心理にある。一口に云って、従来の作品より規模の大きな、感情に於ても局面においても人生のより深いところに触れた、度胸の坐った作品が求められているのである。
 ところが、月々現われる作品の現実に即して見ると、そういう一般の要求を直接反映している作品というものは殆ど見当らない。素朴な、発芽的な形態においてさえもすくない。却って唐紙に墨で描いたような上司小剣氏の「石合戦」が現われたりしている。これは何故であろうか。或る種の人々はこれまでの作家の怠慢さにその原因を帰するけれども、果してそれだけのことであろうか。社会性は益々濃厚に各方面から各人の上に輻輳して来ているのだから、作家がそれを感じない筈もない。文学の成長のための新しい土としてルポルタージュが待たれたのは程遠いことではなかった。だがルポルタージュは、文学に生新な局面を開花せしめることは出来なかった。この間の消息が、今日の文学の帯びている複雑な相貌なのではなかろうか。
 よかれあしかれ、望むと望まないにかかわらず現実は動いている。常に苦痛と希望とを綯いまぜて、人間の意志を照りかえしながら輝きつつ翳りつつ推移してゆく。現実の辛酸が我々を打ちのめしもするが又賢くもする通り、歴史の緊迫した瞬間、文学は一見迂遠に見えるが実は、ある時間が経つと最も豊富な形でその諸経験を広くは人類的な意味で各民族の文化の宝庫の中へたくわえるものである。
 今日、そして明日の新しい日本の文学…

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