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新たなプロレタリア文学
あらたなプロレタリアぶんがく
副題アレゴリーと諷刺
アレゴリーとふうし
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日
初出「東京朝日新聞」1931(昭和6)年7月1~3日号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-01-30 / 2014-09-17
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

          一

 さきごろ中野重治が二つの短いアレゴリーを『改造』へ書いた。
 自分はよんでいないけれども、彼は先に「根」という、やっぱりアレゴリーの成功した作品を書いたそうだ。
 というと、つまり、『改造』に発表された方のはアンマリ成功していないということになる。作者の主観的な、古風な言葉でいえばある述懐というようなものは理解できる。が、作品は註つきでよませる物ではないから、あの二つは、いおうとすることを、はっきりした形で読者の心へ打ちこまないという点で失敗だった。特に「菊の花」の方は、主題のつかみかたがプロレタリア的な立場で見れば敗北主義くさいという、理論上の欠点ももっていた。
 だが、あれをよんで、自分は興味をもって二つのことを感じた。一つは、中野君の作品を批評する場合、みんなの合言葉みたいになってつかわれる「詩人」という言葉の内容についてだ。他の一つは、プロレタリア・アレゴリーというものは、難しいもんだな、アレゴリーと諷刺とは、プロレタリア文学の形式として、どっちが広汎な、階級的役立ちに利用され得るだろうか、ということである。

 アレゴリー、譬話というとわれわれは、まずエソープを思いだす。桃太郎、カチカチ山、兎と亀その他いわゆるおとぎ話は、たくさんアレゴリーの形式で書かれている。
 ロシアにもクルイロフというがっちりした爺さんがいて、エソープの焼直しものをうんと書いた。今でもレーニングラードの冬宮裏の公園へ行くと、濃い菩提樹のしげみのかげに、クルイロフの銅像が立っている。
 だが、どうして、いわゆるおとぎ話、必ず教訓的結語をもった短いものがたりが、主としてアレゴリーの形をとられて来たんだろうか? どうも、作者が一般的な人間の貪慾とか浅慮とかいうものを抽象して来て、欲ばるとこんな目に会うぞという教訓を与えようとする場合、たれの心にでも、つまりどんな地位、階級のものにでもめいめいの立場によって生じる主観的な実際行為の正常化を前もって封じて、いおうとする話を受け入れさせるために、例え話の形をとったらしい。こじきの太郎とか王子のジョージとかより先に、おおかみと鶴、兎にたぬきなんかを持ちだして、話をすすめて行く形である。
 アレゴリーの従来の利用価値は、いろいろあったにしろ、一部の事実として聞きてに聞きて自身や話の中の人物の階級性なんかまで考えさせずに、いいたいことをスラスラいって聞かせるというところにあったことは確だ。
 だから、その中に現れてくる主人公の行為も、具体的であって、実は具体的ではない。
 兎と亀のかけくらで、兎が油断して昼寝したり、亀が身の程を知って、ノタノタ一生懸命に歩きつづけるということは、この世の中に確にある行為だ。けれども、何年、何の時代に、どういう情勢のもとに起ったことだという意味での具体性のないのが、アレゴリーの中の行為…

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