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冬を越す蕾
ふゆをこすつぼみ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日
初出「文芸」1934(昭和9)年12月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-02-13 / 2014-09-17
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 十一月号の『改造』と『文芸』のある記事を前後して読んで、私はなにか一つの大きい力をもったシムフォニーを聴いた時のような感情の熱い波立ちをおぼえた。『文芸』で、大宅壮一氏が「転向讚美者とその罵倒者」という論文を書いている。一方、カール・ラデックがこの八月第一回全連邦ソヴェト作家大会で行った報告演説が、「プロレタリア芸術の課題」という見出しで翻訳されて『改造』にのっている。
 二つの論文は、互にもつれ合い、響きあってその底にだんだんと高まる光った歴史的現実の音波を脈打たせているという印象を、私の心に与えたのであった。
 今年の夏の末ごろのことであった。ある友達が私のしびれている脚に電気療法をしながら、その男兄弟が、
「どうもこの頃は弱るよ。転向なんぞした奴だからというのを口実に、執筆をことわる人間ができて来て……」
といって述懐したという話をした。そのときも、私はさまざまな意味で動的な人の心持の推移がそこに反映している実例として、それを感じた。
 中村武羅夫氏や岡田三郎氏によって、いわゆる転向作家に対するボイコットが宣伝されたとき、私は、ふとその友達の話を思い出したのであった。そして誰の目にも明らかなように、反動的な動機から呈出されている両氏のいい分のかげに隠されているものに対して、注意をひかれたのであった。何故なら、もし一般の人々の感情が、ひと頃のように、プロレタリア作家の間でさえいわゆる転向しない者は間抜けのように見られていたままの弛緩し切った状態であったならば、両氏は、転向作家ボイコット提唱を可能にする社会的感情のよりどころを、つかむことはできなかったであろうから。また、転向が否定的な意味をもって一般の問題となってくるからには、当然他の半面に立つものとして、抵抗をつづけている者たちの、この社会における存在が、再び見直され、かつそれに対する評価は、ひところとちがって来ていることを暗示しているのではないであろうか。私はそれらの錯綜を興味ふかく思うのであった。
 この二三ヵ月は月評につれて小林・室生両氏をはじめ、二宮尊徳について書く武者小路氏まで、この問題にふれている。『新潮』の杉山平助氏の論文、『文芸』の大宅氏の論文を熱心に読んだのは、恐らく私ひとりではなかったであろうと思われる。二人の筆者は、いわゆる転向の問題賛否それぞれの見解を今日の現象の上にとりあげ、内容の分類を行い、問題の見かたをわれわれに示した。
 そもそも転向作家に対してその行為を批判し得るのは、抵抗しつづけている者だけであるという結論に至るらしい大宅氏の意見はもっともであるとうなずかれた。
 転向という文字が今日のような内容をふくんで流布するようになったのは、正確には去年の初夏以来であり、(佐野・鍋山・三田村その他共産党指導者たちが従来の帝国主義侵略戦争に反対するコンムニストたる立場をすてて、…

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