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心に疼く欲求がある
こころにうずくよっきゅうがある
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十三巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日
初出「中央公論」文芸特集号第四号、1950(昭和25)年9月
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-05-26 / 2014-09-17
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

          一

 こんにち、私たちの生活感情の底をゆすって、一つのつよい要求が動いている。それは、日本の現代文学は総体として、その精神と方法とにおいて、きわめて深いところから鋤きかえされる必要があるという疼痛のような自覚である。
 この欲求は、こんにちに生きる私たち多くのものにとって理性の渇望となっている。
 五年来、現代文学は、社会性の拡大、リアリティーのより強壮で立体的な把握と再現とを可能にする方法の発見を課題として来た。そのための試みという名目のもとには、少からぬ寛容が示されて来た。しかし文学現象は、その寛容の谷間を、戦後経済の濁流とともにその日ぐらしに流れて、こんにちでは、そのゴモクタが文学の水脈をおおいかくし、腐敗させるところまで来ている。ちかごろあらわれる実名小説というものも、そこにどういう理窟がつけられようとも、日本の現実におけるそれらの作品の大部分は、私小説から一層文学としての努力をぬきにしてそれを裏がえしたものにすぎない。現代文学の方法が、そのようなタコ壺にはまったとき、われわれの心には五年間の寛容について、責任をかえりみるこころもちがわいて来ている。
 日本の文学は世界の激しい前進を、より多く逆流としてうけて、最近の五年間、いわば年ごとに、タコツボに向って、おしころがされて来た。一九四五年八月十五日から後の、いく年間か文学上に発言のなかった今日出海によって、実名小説流行のいとぐちが開かれたことも、偶然ではない。一九五〇年度の文学現象のこのような特性は、それ自身として決して孤立した社会現象ではないのである。
 そのようなこんにち、一方では、社会的・歴史的な人類としてわれわれが生きている証左たる、理性の覚醒としての文学、を要望する思いが、切実である。広汎な読者がそれを要求しているばかりでなく、文学者自身のうちに、その要求が疼いている。
 こんにち、もっとも真率に探求的な態度で語られなければならないのは、理性の構成と機能、の課題である創作方法の問題ではないだろうか。しかもそれについて語りかたは、歴史の現実とともに急激に推進されて、わたしたちは、創作方法についてメリー・キューリー夫人が放射能を求めて、黒くて臭い鉱物を煮つめていた時代のように語ってばかりいることは許されない。こんにちジョリオ・キューリーが原子力の研究の人類的な方法について語り、それについて行動しているように、文学の方法も語られるべき歴史の段階に来ているのではないだろうかと思う。人間の価値は、こんにちおそろしいテムポで、その真実を露出しつつある。彼が何であるかということによってではなく、彼はいかなることをなしつつあるかという事実によって。創作方法の問題とその可能性についても同じように現実的な角度からしっかりと直視されていいと思う。私は私にとって一番そのプラス・マイナスについ…

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