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帝展を観ての感想
ていてんをみてのかんそう
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十四巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日
初出「婦人文芸」1934(昭和9)年12月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-07-27 / 2014-09-17
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 数年の間、私はいろいろのことから帝展というものを観ないで過して来た。今年久しぶりにほんの通りすぎる程度ではあったがそれぞれ数百点の日本画、洋画を見物し、素人らしい感想にみたされた。
 私が記憶していた頃の帝展では、日本画というと大作ぞろいで、一室の壁半分を一枚で占めるような大きい画が多かった。秀作も駄作も大きさで先ず観衆を瞠目せしめる風であった。今年は、それがいずれも余り大きい作品がなくなって来ている。大家連が筆頭で小品風なものを、小品風な筆致で描いて、その範囲での貫録を示すかのように新進の画家たちとは別にまとめて一室に飾られてある。
 私は絵として心を打たれるものを見出すことは出来なかったが、その絵の大小によって云わず語らずのうちに示された日本の大画家連の製作をも左右している世間の不景気の反映に興味を感じた。
 画商との微妙な連関で自分の画の市価というものが定り、その相場が上ることで画家としての価値をきめられている清方、栖鳳、麥僊その他の日本画大家連は、この頃の経済的ゆきづまりで彼等の高価な絵を買う人が減っても絵の価を下げられず、従ってその標準ではける可能のある小さい作品にうつるところ、社会関係がなかなか活々と作用を及ぼしていると思ったのであった。
 大体から云って、今日の生活感情を表現するものとして日本画が材料の上からも非常な困難に面していることがまざまざと感じられた。大家連が依然として芸者、舞妓、花、蛙などにとじこもっているに対し、題材として新しい方向を求め、例えば発電所・橋・市街鳥瞰図風の素材を扱った新人もあるが、結局それ等の題材は風景として理解されているに止っているし、日本画としての技術上からも、それ等の現実性を再現するだけ立体的には描けていない。
 題材は何であろうと、今年の帝展の日本画の大部分は、私に、日本画が今では一つの工芸品的なものに変っていることをつよく印象づけた。
 画家たちは殆ど一人のこらず、紙や絹の上に実にきれいにしかも出来るだけ厚く絵の具を盛り上げることに腐心している。近づいて画面を見ると、どれも蒔絵のように塗られていて、私はこういうのをも尚描くということが出来るのであろうか、塗上げ術の問題はあるとしても描法の問題はここには消散してしまっている、そのように感じたのであった。
 日本画家たちの日常生活をも、つき動かしている社会的な不安を、これらの人々は現実の自身達の生活からは既にとび去っている日本画の美の伝統の範囲内で解決しようと不可能な焦慮をしている。その解決のない矛盾と焦慮とを平面的で濃厚な色彩で辛くも塗り圧えようとしている苦しさが画面から私の感情に迫って来たのであった。
 洋画の部でも、私は精神をつかまれたように感じて立ち止るような絵には出会うことが出来なかった。
 この洋画の部では、去年「老婆」を出品して一般の注意をひいた…

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