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逆立ちの公・私
さかだちのおおやけ・わたくし
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十六巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日
初出「文芸春秋」1946(昭和21)年2・3月合併号
入力者柴田卓治
校正者磐余彦
公開 / 更新2003-10-18 / 2014-09-18
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 先ごろ、ある婦人雑誌で、婦人の公的生活、私的生活という話題で、座談会を催す計画があったようにきいた。何かの都合で、それは実現されなかった。しかし、その話をきいたとき、わたしは、それは面白い話題のつかみかただと思った。提案者の意企は、どういうところにあったか知らないけれども、今日の日本の現実と向い合ってこのテーマが出て来るからには、まさか、婦人の参政権に伴って、婦人の日常性の中で、公的生活と、私的生活とは、どう調和するか、或は、どう調和させて行くべきかというような、官僚じみた視点に立って出されたのではないであろう。
 真にこのテーマが、今のわたし達の生きている現実の中で出された場合、先ず、今日の公的生活とは何であり、私的生活とは何であるか、そこから新しく見直されてゆかなければならない状況にある。そこから課題が展開されて、はじめて、生きた話となってゆくのではなかろうか。わたしは、そう考えた。
 公的生活、私的生活ときいたとき、心に閃いたのは、現代の日本人民の生活では、実質的に、その二つが互に入れ替ってしまっている、という事実であった。私的生活という名で区分されていた日々の生活の諸面におこっているあらゆる問題のすべては公的な性質を帯びている。そして、習慣的に公的と思われて来た社会活動の面に夥しい私的生活がまぎれ込んで来ている。つまり、今日の日本では、二つのものが、さかさまになっているのではあるまいか。
 明治からの日本の文化史をみれば、われら日本の民草というものが、ただの一度もヨーロッパ諸国の市民たちが経過した市民社会の生活経験というものをもっていないことは、明かな事実である。長い長い封建の時代、命さえも自分に属するものではなく、武士は家禄によって領主に生殺与奪の権をもたれていたし、人民百姓は、手討ちという制度の下におかれていた。森鴎外の「阿部一族」の悲劇が、殉死のいきさつをめぐっての武士間の生存闘争であることに、二重の悲劇の意味がふくまれるのである。
 最近十数年間、日本人は「滅私」という標語で統一しようとされて来た。近代社会の必然として、いくらかは日本にも生れた合理主義的な傾向、他人の考えが自分の考えと違うからと云ってそれは当り前のことと理解する自由主義の傾向、更に、歴史の進展は抑え難い必然であるとみて、その動因を社会の生産諸関係の推移、その矛盾のうちに見ようとする民主的傾向、それらは、本来において、社会に対する認識の表現であるから、まぎれもなく公的なものであるにかかわらず、「滅すべき私」の範疇に入れられることとなった。そして、「日本のため」或は「天皇のため」にということが、すべての私を滅した一億人民の公的な生存意義とされたのであった。
 日本の個人主義は、よきにつけ、あしきにつけ、未発達のまま、第二次世界大戦、太平洋戦争に突入してしまった。そのため、一個人…

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