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ジャーナリズムの航路
ジャーナリズムのこうろ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十六巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日
初出「日本読書新聞」1949(昭和24)年10月26日号
入力者柴田卓治
校正者磐余彦
公開 / 更新2003-10-28 / 2014-09-18
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 新聞週間がはじまって、しばらくしたら「新聞のゆくところ自由あり」という標語があらわれた。これには英語で Where news paper goes, there is freedom. と書き添えられていた。新聞のゆくところ自由あり――幾里も彼方に浮んだ山の輪廓のように何となし心をひかれるようだが、実はつかみどころのない言葉。――自由がある。これさえめずらしいのに、その自由が、新聞のゆくところにあるとすれば、大新聞は幾百万と印刷され、朝ごとに日本全地方に配達されている。
 日本のいたるところにそれほど自由があって、自由な人々の戸口の前に自由な新聞がくばられてでもいるような思いちがいをおこさせる。購読者がこんにちの新聞からうけている感情の一面をあるとおりに云いあらわせば、新聞のゆくところ自由があるという言葉は、どこやら大新聞まかり通る、というようにもきこえる。その新聞が官報であろうと、植民地版であろうと、中傷的なにせ写真をのせていようと、大新聞のゆくところ自由あり、と。すさまじいようだと云えないこともない。
 小新聞の、大新聞への独占吸集が成功してから、大新聞の質は低下した。誰の目にも民主的と云えない政治的なかげをこくした。その政治性も、黄色新聞の性格である。自分の紙面に挑発や真実でない記事、事実をはっきりつきつめないで平気で社会に向ってものをいうような人々の一定の政治的傾向からの発言などがのることを、恥しいこととして感じる感覚を失わせられている。新聞週間がはじまったときの街頭録音で、発言した人々の圧倒的な希望は、新聞の公器性を自覚してほしいこと、正確な事実に立つ報道をしてもらいたいことだった。これは、全購読者の希望である。
 新聞と異常で衝撃的なニュースとを結びつけて期待しているような不幸な近代の都会神経を、購読者の側からも自省しなければならないと云われたのもあたっている。それにつられて御丁寧にも金権政治工作に毎日を買いわたしてしまっているのは、ほかならぬ購読者なのであるから。
 こんにち、ジャーナリズムの功罪は、ひとごとでなくなった。どうせジャーナリズムはますます大資本の独占的企業になりつつあるのだから、と素朴に反発するだけではすまされない。なぜなら日本のわたしたち全人民の生活は大資本の国際的な企業のあみめにはいっていて、八千万人の従順な奴隷と外国人から率直な現実指摘をうけている。外国人は日本の現実についてあるとおりに見ることができ、語ることができ、書くこともできる。当然であるその条件を、日本の人民自身が日本について語る場合、自分たちの運命について主張する場合にも持ってゆくためにこそ、ジャーナリズムは、ある甲斐のあるものでなければなるまい。ジャーナリスト自身とくに日本のジャーナリストとしてこの点にどんな熱意がもたれているだろうか。わたしは、この点について…

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