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東漢の班超
とうかんのはんちょう
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」 岩波書店
1968(昭和43)年2月13日
初出「大阪朝日新聞」1917(大正6)年1月17日~19日
入力者はまなかひとし
校正者菅野朋子
公開 / 更新2002-01-15 / 2014-09-17
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 數多き支那古今の人物の中に就いても、吾が氣に入つた人物といふと、一寸選擇に迷惑する。吾が輩の如き、史實調査に從事するものは、人物の表裏功過ともに承知するだけ、それだけ氣に入つた人物は見當り兼ねる。瑕疵のない人物といへば、孔子とか諸葛孔明とかを擧げねばならぬ。支那嫌ひで有名で、堯舜禹湯文武周公の所謂聖人を始め、支那の人物といふ人物に對して、惡罵を浴せかける本居宣長でも、殊に平田篤胤でも、流石に孔子と孔明に對しては、非常に感服して居る。本居は、
  唐人と人はいへども、唐人のたぐひならめや、孔子はよき人
と申して居る。畢竟孔子は支那人とは違ふ、日本人が間違つて支那に生れたかの如き口吻を漏らして居る。平田は孔明に非常な同情を寄せ、支那人は孔子以後無二孔子一といふが、寧ろ孔子以後有二孔明一といふが至當だと主張して居る。
 如何にも孔子や孔明は、日本人の立場から論じても、非難すべき點がない。吾が輩も所謂支那の聖人の中で、最も孔子を崇拜いたし、また耶蘇や釋迦以上に孔子を贔屓して居る。吾が輩は又孔明に同情することに於て、平田に讓らぬ積りである。併し孔子や孔明を氣に入つた人物として擧げるのは、餘りに平凡の嫌ひがある。今少し目先きの變つた人物を名指したいと思ふ。
 吾が輩の氣に入つた人物の一人に、東漢の班超がある。彼は班彪の子で、有名な班固の弟である。光武帝の建武九年(西暦三三)の誕生で、正しく巳歳に當つて居る。彼の二十二歳の時に父班彪は世を去つた。元來班彪は其學徳の割合に出世せず、一家は餘程微禄して居つた。故に父逝去の後は、班超は官の筆耕となつて、母親を養はねばならぬ。母の爲とはいへ、三十歳前後、然も人一倍功名心の強い彼は、流石に筆耕生活に堪へ兼ね、時々業をやめ筆を投じて
男子と生れたからは、せめて外國征伐でもやつて、花々しい功績を建て、一生の中に大名位にならねばならぬ。筆や硯を相手に生涯を果してたまるものか。(大丈夫當下立二功異域一以取中封侯上。安能久事二筆研間一乎)
と嘆息して、無智な仲間達から嘲笑されたこともある。
 兔角する間に、光武帝の子明帝は永平十六年(西暦七三)に竇固を大將として匈奴征伐をやつた。この時班超は竇固の部下に加はり天山の麓の蒲類海(今の巴爾庫爾)の戰ひに功名を建てた。
 一體匈奴征伐を徹底せしめんには、是非匈奴に服從して居る西域諸國の經營を忽にすることが出來ぬ。西漢の明帝の匈奴を征伐する時に、實にこの計畫を採つた。竇固も亦漢武の故智を襲ひ、西域經營に手を着けることとなつた。この使命の選に當つたのが、前に蒲類海で手腕を示した班超で、彼は三十六人の部下を引率して、尤も手近な[#挿絵]善國に往き、漢に歸順せんことを勸誘した。最初は[#挿絵]善王も漢使一行を厚遇したが、間もなく匈奴の使者が百餘人の大勢で、その國に乘り込み來ると、打つて變つて班超らを…

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