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連環記
れんかんき
作品ID3556
著者幸田 露伴
文字遣い新字新仮名
底本 「昭和文学全集 第4巻」 小学館
1989(平成元)年4月1日
入力者kompass
校正者今井忠夫
公開 / 更新2003-06-17 / 2014-09-17
長さの目安約 100 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 慶滋保胤は賀茂忠行の第二子として生れた。兄の保憲は累代の家の業を嗣いで、陰陽博士、天文博士となり、賀茂氏の宗として、其系図に輝いている。保胤はこれに譲ったというのでもあるまいが、自分は当時の儒家であり詞雄であった菅原文時の弟子となって文章生となり、姓の文字を改めて、慶滋とした。慶滋という姓があったのでも無く、古い書に伝えてあるように他家の養子となって慶滋となったのでも無く、兄に遜るような意から、賀茂の賀の字に換えるに慶の字を以てし、茂の字に換えるに滋の字を以てしたのみで、異字同義、慶滋はもとより賀茂なのである。よししげの保胤などと読む者の生じたのも自然の勢ではあるが、後に保胤の弟の文章博士保章の子の為政が善滋と姓の字を改めたのも同じことであって、為政は文章博士で、続本朝文粋の作者の一人である。保胤の兄保憲は十歳許の童児の時、法眼既に明らかにして鬼神を見て父に注意したと語り伝えられた其道の天才であり、又保胤の父の忠行は後の人の嘖々として称する陰陽道の大の験者の安倍晴明の師であったのである。此の父兄や弟や姪を有した保胤ももとより尋常一様のものでは無かったろう。
 保胤の師の菅原文時は、これも亦一通りの人では無かった。当時の文人の源英明にせよ、源為憲にせよ、今猶其文は本朝文粋にのこり、其才は後人に艶称さるる人々も、皆文時に請いて其文章詞賦の斧正を受けたということである。ある時御内宴が催されて、詞臣等をして、宮鶯囀二暁光一いう題を以て詩を賦せしめられた。天皇も文雅の道にいたく御心を寄せられたこととて、
露は濃やかにして 緩く語る 園花の底、
月は落ちて 高く歌ふ 御柳の陰。
という句を得たまいて、ひそかに御懐に協いたるよう思したまいたる時、文時もまた句を得て、
西の楼 月 落ちたり 花の間の曲、
中殿 灯 残えんとす 竹の裏の声。
と、つらねた。天皇聞しめして、我こそ此題は作りぬきたりと思いしに、文時が作れるも又すぐれたりと思召して、文時を近々と召して、いずれか宜しきや、と仰せられた。文時は、御製いみじく、下七字は文時が詩にも優れて候、と申した。これは憚りて申すならんと、ふたたび押返し御尋ねになった。文時是非なく、実には御製と臣が詩と同じほどにも候か、と申した。猶も憚りて申すことと思召して、まこと然らば誓言を立つべしと、深く詩を好ませたもう余りに逼って御尋ねあると、文時ここに至って誓言は申上げず、まことには文時が詩は一段と上に居り候、と申して逃げ出してしまったので、御笑いになって、うなずかせたもうたということであった。こういう文時の詩文は菅三品の作として今に称揚せられて伝わっているが、保胤は実に当時の巨匠たる此人の弟子の上席であった。疫病の流行した年、或人の夢に、疫病神が文時の家には押入らず、其の前を礼拝して過ぐるのを見た、と云われたほど時人に尊崇された菅三品の門…

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