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牛鍋
ぎゅうなべ
作品ID3615
著者森 鴎外
文字遣い新字新仮名
底本 「普請中 青年 森鴎外全集2」 ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年7月24日
初出「心の花」1910(明治43)年1月
入力者鈴木修一
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-09-04 / 2016-02-06
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 鍋はぐつぐつ煮える。
 牛肉の紅は男のすばしこい箸で反される。白くなった方が上になる。
 斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。
 箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着らしい印半纏を着ている。傍に折鞄が置いてある。
 酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。
 酒を注いで遣る女がある。
 男と同年位であろう。黒繻子の半衿の掛かった、縞の綿入に、余所行の前掛をしている。
 女の目は断えず男の顔に注がれている。永遠に渇しているような目である。
 目の渇は口の渇を忘れさせる。女は酒を飲まないのである。
 箸のすばしこい男は、二三度反した肉の一切れを口に入れた。
 丈夫な白い歯で旨そうに噬んだ。
 永遠に渇している目は動く[#挿絵]に注がれている。
 しかしこの[#挿絵]に注がれているのは、この二つの目ばかりではない。目が今二つある。
 今二つの目の主は七つか八つ位の娘である。無理に上げたようなお煙草盆に、小さい花簪を挿している。
 白い手拭を畳んで膝の上に置いて、割箸を割って、手に持って待っているのである。
 男が肉を三切四切食った頃に、娘が箸を持った手を伸べて、一切れの肉を挟もうとした。男に遠慮がないのではない。そんならと云って男を憚るとも見えない。
「待ちねえ。そりゃあまだ煮えていねえ。」
 娘はおとなしく箸を持った手を引っ込めて、待っている。
 永遠に渇している目には、娘の箸の空しく進んで空しく退いたのを見る程の余裕がない。
 暫くすると、男の箸は一切れの肉を自分の口に運んだ。それはさっき娘の箸の挟もうとした肉であった。
 娘の目はまた男の顔に注がれた。その目の中には怨も怒もない。ただ驚がある。
 永遠に渇している目には、四本の箸の悲しい競争を見る程の余裕がなかった。
 女は最初自分の箸を割って、盃洗の中の猪口を挟んで男に遣った。箸はそのまま膳の縁に寄せ掛けてある。永遠に渇している目には、またこの箸を顧みる程の余裕がない。
 娘は驚きの目をいつまで男の顔に注いでいても、食べろとは云って貰われない。もう好い頃だと思って箸を出すと、その度毎に「そりゃあ煮えていねえ」を繰り返される。
 驚の目には怨も怒もない。しかし卵から出たばかりの雛に穀物を啄ませ、胎を離れたばかりの赤ん坊を何にでも吸い附かせる生活の本能は、驚の目の主にも動く。娘は箸を鍋から引かなくなった。
 男のすばしこい箸が肉の一切れを口に運ぶ隙に、娘の箸は突然手近い肉の一切れを挟んで口に入れた。もうどの肉も好く煮えているのである。
 少し煮え過ぎている位である。
 男は鋭く切れた二皮目で、死んだ友達の一人娘の顔をちょいと見た。叱りはしないのである。
 ただこれからは男のすばしこい箸が一層すばしこくなる。代りの生を鍋に運ぶ。運んでは反す。反しては…

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