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素朴な庭
そぼくなにわ
作品ID3835
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十七巻」 新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日
初出「山陽新報」1924(大正13)年4月9、10日号
入力者柴田卓治
校正者磐余彦
公開 / 更新2003-11-15 / 2014-09-18
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は東京で生れた。母は純粋な江戸っ子である。けれども、父が北国の人で、私も幼少の頃から東北の田園の風景になれている故か、私の魂の裡にはやみ難い自然への郷愁がある。それも、南国の強烈な日光は求めず、日本の北の、澄んだ、明るい爽かな春、夏秋が何とも云えずに懐しい。冬の荒い北風、幾度かその上に転んだ深い雪、風の雨戸に鳴る音さえ、陰気ではあるが私にとって決して厭わしい思い出ではない。

 春が来て、私の家の小さな庭に香のある花が咲き、夕暮の残光が長く空を照らす頃になると、私のその郷愁は愈募って来る。私は幾度となく旅行を思う。そして実際事情が許せば必ず一度は東京を去らずには置かないのだ。
 今日は四月上旬の穏かな気温と眠い艷のない曇天とがある。机に向っていながら、何のはずみか、私は胸が苦しくなる程、その田舎の懐しさに襲われた。斯うやっていても、耕地の土の匂い裸足で踏む雑草の感触がまざまざと皮膚に甦って来る。――子供の時分は愉しかった。私が裸足で百姓の後にくっついて畑から畑へと歩き廻っても、百姓は気楽に私に戯談を云い彼の鍬を振った。どんな農家の土間を覗きこんで「それは何?」「何にするの?」ときいても、誰一人少女の無礼は咎めなかった。今もうその暢ような人との交渉は田舎に於ても幾分減った。あの頃と異わず私を受け入れて呉れるのは春の複雑な陰翳を持つ連山と、遠くや近くの森、ゆるやかな起伏を以て地平線迄つづく耕地、渡り鳥が翔ぶ、素晴らしい夕焼け空などである。――

 自然に対して斯う云う憧憬的な気分の時、私は殆ど一種の嫌悪を以て目の前のせせこましい庭を見る。飛び石で小さいセメントの池から木戸まで、又は沈丁花の傍らまで人工的につながれた庭。通俗的な日本式庭園の型をまねて更に一層貧弱な結果を示したに過ぎない。

 私は、庭が、せめてありのままの自然の一部を区切って僅の修正を施した程度のものでありたい。本当の野山をいくら捜してもない樹木の配置、木と木との組み合わせ等を狭い都会の空地に故意とらしく造るより、自然の一隅で偶然出会って忘られない印象を与えられた風景の再現を目標として、工夫を凝すなら凝したい。
 茶道の名人達は、その感情を深く味到したのだろう。悲しい事に、今日東京に住む私共は、全然野生に放置された自然か、或は厭味にこねくられた庭か、而も前者はごく稀れにしか見られないと云う不運にあるのだ。

 ジョージ・ギッシングは、非常に困難な一生を送り、芸術家としても決して華やかな生涯は経験しなかった人らしいが、彼の作物のあるものの裡には、殆ど東洋的な静謐さ、敏感な内気な愛が漲っている。四季に分けて書かれたヘンリー・ライクロフトの私記と云う随筆集の中に、彼の庭園についての好みを書いてあるところがある。彼の心持が私には自分のもののように思えた。

「庭掘りに来た善良な男は、私の特殊な好みの理…

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