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貝殻追放
かいがらついほう
副題007 愚者の鼻息
007 ぐしゃのはないき
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「水上瀧太郎全集 九卷」 岩波書店
1940(昭和15)年12月15日
初出「三田文學」1918(大正7)年7月号
入力者柳田節
校正者門田裕志
公開 / 更新2005-02-22 / 2014-09-18
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 人をつかまへて親切めかして忠告するのは、人をつかまへて無責任に罵倒するのと同じ位いい氣持なものである。
 これは自分の座右の銘では無い。大正七年二月深川區猿江町吉村忠雄と封筒には署名し、半紙七枚に鐵筆で細かく書いた「水上瀧太郎君に與ふ」といふ文章に次郎生と名告つた人から難詰状を受取つた時に、ふと自分の腦裡に浮んだ安價なる詭辯である。
 吉村忠雄氏事次郎生、若しくは次郎生事吉村忠雄氏、或はもつと正確にいへば吉村忠雄及び次郎生事某氏は、
瀧太郎君足下
余は君とは昵近の間柄のものである。否獨り君のみとは言はず君の一族同胞には格別なる近親の者である――君の生立や兩親や乃至は平常生活から家庭に於ける起居皆一々手に取る如く知り拔いて居るものゝ一人である。
ではあるが君が文學に趣味を持つて居る、文才に長けて居るといふ事を他人から聞き傳へたり紙上で見たりしたのは比較的後の事に屬するのである。
それは何故かといふに君が筆を執る際は必ず姓名共に別名を用ひて居ること、も一つは余が餘りに君とは近親であるから平常君が文學書など繙いて居るのを知つて居ても、所謂文士仲間に左や右う言はれる程では勿論ないし、猶又何に彼の子供が――といふ觀念が先入主となつて居た事とが、余の君の文才を知ることの後れた主たる原因であると申したい。
 と書出して、扨てその人は自分が「所謂文士の仲間入りをして居る」事を知り、
彼の子供が何んな事を書くだらうとか、どんな文藝上の手腕をもつて居るだらうとか、或は題材は何んなものを捉へるだらうとか、それはそれは余の君に對する期待は蓋し豫想外に大きなものであつたのである。
 と稱してゐる。而して御苦勞樣にも「多忙な身ではあるが、三田文學に出た作品は一つ殘らず讀み」、先頃大阪毎日及び東京日日新聞に連載された「先生」といふ小品も毎日缺かさず讀んだのださうである。けれども、
余の期待の餘りに大き過ぎた爲であつたか、或は又余の文學に對する眼識が偏狹であるかは知らぬが、左程までに大なりし余の期待は君の作品を漁り行くに從つて次第々々に薄れて、果ては大なる失望と化し去つたのである。特に「先生」の一篇を見てからは更に其感を深くした次第である。
 と殘念がつてゐる。
 以上が吉村忠雄氏又は次郎生の「水上瀧太郎君に與ふ」のはしがきで、自分及び自分の家をよく知つてゐて、水上瀧太郎を「なんの彼の子供が」と思つてゐると稱する大人は、次の如き詰問と慢罵に移つて行つた。
瀧太郎君足下
余は勿論君とは生活状態も違ふし、文藝に就いて彼是れ議論を戰はす程の素養を持つては居らぬ。
が少し君に尋ねて見度いと思ふ事がある。それは外ではない、文藝の價値といふ事である。それも總括的に文藝其物に就てでなく新聞紙の如きあらゆる階級に――階級といつても上下卑賤を指のではない、主として文藝を解する解せないを標準としてである――…

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