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今戸心中
いまどしんじゅう
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の文学 77 名作集(一)」 中央公論社
1970(昭和45)年7月5日
初出「文芸倶楽部」1896(明治29)年7月
入力者土屋隆
校正者小林繁雄
公開 / 更新2006-05-10 / 2014-09-18
長さの目安約 75 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一

 太空は一片の雲も宿めないが黒味渡ッて、二十四日の月はまだ上らず、霊あるがごとき星のきらめきは、仰げば身も冽るほどである。不夜城を誇り顔の電気燈にも、霜枯れ三月の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の二階に甲走ッた声のさざめきも聞えぬ。
 明後日が初酉の十一月八日、今年はやや温暖かく小袖を三枚重襲るほどにもないが、夜が深けてはさすがに初冬の寒気が身に浸みる。
 少時前報ッたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鉄棒の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にもやや雑談の途断れる時分となッた。
 廊下には上草履の音がさびれ、台の物の遺骸を今室の外へ出しているところもある。はるかの三階からは甲走ッた声で、喜助どん喜助どんと床番を呼んでいる。
「うるさいよ。あんまりしつこいじゃアないか。くさくさしッちまうよ」と、じれッたそうに廊下を急歩で行くのは、当楼の二枚目を張ッている吉里という娼妓である。
「そんなことを言ッてなさッちゃア困りますよ。ちょいとおいでなすッて下さい。花魁、困りますよ」と、吉里の後から追い縋ッたのはお熊という新造。
 吉里は二十二三にもなろうか、今が稼ぎ盛りの年輩である。美人質ではないが男好きのする丸顔で、しかもどこかに剣が見える。睨まれると凄いような、にッこりされると戦いつきたいような、清しい可愛らしい重縁眼が少し催涙で、一の字眉を癪だというあんばいに釣り上げている。纈り腮をわざと突き出したほど上を仰き、左の牙歯が上唇を噛んでいるので、高い美しい鼻は高慢らしくも見える。懐手をして肩を揺すッて、昨日あたりの島田髷をがくりがくりとうなずかせ、今月一日に更衣をしたばかりの裲襠の裾に廊下を拭わせ、大跨にしかも急いで上草履を引き摺ッている。
 お熊は四十格向で、薄痘痕があッて、小鬢に禿があッて、右の眼が曲んで、口が尖らかッて、どう見ても新造面――意地悪別製の新造面である。
 二女は今まで争ッていたので、うるさがッて室を飛び出した吉里を、お熊が追いかけて来たのである。
「裾が引き摺ッてるじゃアありませんか。しようがないことね」
「いいじゃアないか。引き摺ッてりゃ、どうしたと言うんだよ。お前さんに調えてもらやアしまいし、かまッておくれでない」
「さようさね。花魁をお世話申したことはありませんからね」
 吉里は返辞をしないでさッさッと行く。お熊はなお附き纏ッて離れぬ。
「ですがね、花魁。あんまりわがままばかりなさると、私が御内所で叱られますよ」
「ふん。お前さんがお叱られじゃお気の毒だね。吉里がこうこうだッて、お神さんに何とでも訴けておくれ」
 白字で小万と書いた黒塗りの札を掛けてある室の前に吉里は歩を止めた。
「善さんだッてお客様ですよ。さッきからお酒肴が来てるんじゃありません…

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