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一兵卒と銃
いっぺいそつとじゅう
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「新進傑作小説全集 第十四巻(南部修太郎・石濱金作集)」 平凡社
1930(昭和5)年2月10日
初出「文藝倶樂部」1919(大正8)年12月号
入力者小林徹
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-12-19 / 2014-09-18
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 霧の深い六月の夜だつた。丁度N原へ出張演習の途上のことで、長い四列縱隊を作つた我我のA歩兵聯隊はC街道を北へ北へと行進してゐた。
 風はなかつた。空氣は水のやうに重く沈んでゐた。人家も、燈灯も、畑も、森も、川も、丘も、そして歩いてゐる我我の體も、灰を溶したやうな夜霧の海に包まれてゐるのであつた。頭上には處處に幽かな星影が感じられた。
「おい小泉、厭やに蒸すぢやないか‥‥」と、私の右隣に歩いてゐる、これも一年志願兵の河野が囁いた。
「さうだ、全く蒸すね。惡くすると、明日は雨だぜ‥‥」と、私は振り向き樣に答へた。河野の眠さうな眼が闇の中にチラリと光つた。
「うむ‥‥」と、河野は頷いた。「然し、演習地の雨は閉口するな‥‥」と、彼はまた疲れたやうな聲で云つた。
「ほんとに雨は厭やだな‥‥」と、私はシカシカする眼で空を見上げた。
 夜は大分更けてゐた。「遼陽城頭夜は更けて‥‥」と、さつきまで先登の一大隊の方で聞えてゐた軍歌の聲ももう途絶えてしまつた。兵營から既に十里に近い行程と、息詰るやうに蒸し蒸しする夜の空氣と、眠たさと空腹とに壓されて、兵士達は疲れきつてゐた。誰もが體をぐらつかせながら、まるで出來の惡い機械人形のやうな足を運んでゐたのだつた。隊列も可成り亂れてゐた。
 私の左側にゐる中根二等卒はもう一時間も前から半分口をダラリと開けて、眠つたまま歩いてゐた。平生からお人好しで、愚圖で、低能な彼は、もともとだらしのない男だつたが、今は全く正體を失つてゐた。彼は何度私の肩に倒れかゝつたか知れなかつた。そしてまた何度私は道の外へよろけ出さうとする彼を抑へてやつたか知れなかつた。
「おい、寢ちやあ危いぞ‥‥」と、私は度毎にハラハラして彼の脊中を叩き著けた。が、瞬間にひよいと氣が附いて足元を堅めるだけで、また直ぐにひよろつき出すのであつた。
「みんな眠つちやいかん‥‥」と、時時我我の分隊長の高岡軍曹は無理作りのドラ聲を張り上げた[#「上げた」は底本では「上けた」]。が、中根ばかりではない、どの兵士達ももうそれに耳を假すだけの氣力はなかつた。そして、まるで酒場の醉ひどれのやうな兵士の集團は濕つた路上に重い靴を引き摺りながら、革具をぎゆつぎゆつ軋らせながら劍鞘を互にかち合せながら、折折寢言のやうな唸り聲を立てながら、まだ五六里先のN原まで歩かなければならなかつた。
「F町はまだかな‥‥」とまた河野が振り向いて、思ひ出したやうに訊ねた。
「もう直きだ。よつ程前にE橋を渡つたからな‥‥」と、私は眠たさを堪へながら生返事をした。
「さうか、それでもまだ先はなかなか遠いなあ‥‥」と、河野は右手の銃を重さうにずり上げながら云つた。
「うん、それもさうだが、何しろ己はもう眠くて閉口だ。此處らでゴロリとやつちまひたいな‥‥」
「全くだ。今一寢入させてくれりやあ命も要らないな‥‥」
「はは、…

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