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論語物語
ろんごものがたり
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「下村湖人全集 第五巻」 池田書店
1965(昭和40)年5月15日
初出「現代」大日本雄弁会講談社、1938(昭和13)年
入力者tatsuki
校正者酒井和郎
公開 / 更新2016-04-20 / 2016-04-11
長さの目安約 270 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

序文


 論語は「天の書」であると共に「地の書」である。孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るようになった人である。天の言葉は語ったが、彼には神秘もなければ、奇蹟もなかった。いわば、地の声をもって天の言葉を語った人なのである。
 彼の門人達も、彼にならって天の言葉を語ろうとした。しかし彼等の多くは結局地の言葉しか語ることが出来なかった。中には天の響を以て地の言葉を語ろうとする虚偽をすら敢てする者があった。そこに彼等の弱さがある。そしてこの弱さは、人間が共通に持つ弱さである。吾々は孔子の天の言葉によって教えられると共に、彼等の地の言葉によって反省させられるところが非常に多い。
 こうした論語の中の言葉を、読過の際の感激にまかせて、それぞれに小さな物語に仕立てて見たいというのが本書の意図である。無論、孔子の天の言葉の持つ意味を、誤りなく伝えることは、地臭の強い私にとっては不可能である。しかし、門人達の言葉を掘りかえして、そこに私自身の弱さや醜さを見出すことは、必ずしも不可能ではなかろうと思う。
 この物語において、孔子の門人達は二千数百年前の中国人としてよりも、吾々の周囲にざらに見出しうる普通の人間として描かれている。そのために、史上の人物としての彼等の性格は、ひどく歪められ、傷けられていることであろう。この点、私は過去の求道者達に対して、深く深くおわびをしなければならない。
 しかし、論語が歴史でなくて、心の書であり、人類の胸に、時処を超越して生かさるべきものであるならば、吾々が、それを現代人の意識を以て読み、現代人の心理を以て解剖し、そして吾々自身の姿をその中に見出そうと努めることは、必ずしも論語そのものに対する冒[#挿絵]ではなかろうと信ずる。

 論語四百九十九章中、本書に引用したものが百三十章である。しかし、これらの章句が、如何なる時に、如何なる処で、如何なる事情の下に発せられた言葉であるかを、正確に伝えることは、全然本書の意図するところではない。本書では、ある章句を中心にして物語を構成しつつ、意味の上でその物語中に引用するに適したと思われるような章句は、何の考証もなしに、これを引用することにした。従って、考証的な詮索が本書に対してなされることは、全く無意味である。
 尚、物語相互の間に内容的な連絡はない。従ってその排列についても何等一定の標準がない。それぞれの物語は、それぞれに独立して読まるべきである。
 孔子は、門人を呼ぶに、名を呼んで決して字を呼ばない。(例えば子貢を賜と呼び、子路を由と呼ぶが如く)しかし本書においては、そうした事すら厳密に守られていない。その他起居動作の習慣等について、二千数百年前の中国を知る人の眼から見たら、慊らない節々が多分にあるであろう。著者は、しかし、一々それらの事を意に介しない。著者はただ「心」を描けば…

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