えあ草紙・青空図書館 - 作品カード


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くすり
著者
翻訳者井上 紅梅
文字遣い新字新仮名
底本 「魯迅全集」 改造社
1932(昭和7)年11月18日
入力者京都大学電子テクスト研究会入力班
校正者京都大学電子テクスト研究会校正班
公開 / 更新2004-05-30 / 2014-09-18
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

        一

 亮るい月は日の出前に落ちて、寝静まった街の上に藍甕のような空が残った。
 華老栓はひょっくり起き上ってマッチを擦り、油じんだ燈盞に火を移した。青白い光は茶館の中の二間に満ちた。
「お父さん、これから行って下さるんだね」
 と年寄った女の声がした。そのとき裏の小部屋の中で咳嗽の声がした。
「うむ」
 老栓は応えて上衣の釦を嵌めながら手を伸ばし
「お前、あれをお出しな」
 華大媽は枕の下をさぐって一包の銀貨を取出し、老栓に手渡すと、老栓はガタガタ顫えて衣套の中に収め、著物の上からそっと撫でおろしてみた。そこで彼は提灯に火を移し、燈盞を吹き消して裏部屋の方へ行った。部屋の中には苦しそうな噴び声が絶えまなく続いていたが、老栓はその響のおさまるのを待って、静かに口をひらいた。
「小栓、お前は起きないでいい。店はお母さんがいい按排にする」
「…………」
 老栓は倅が落著いて睡っているものと察し、ようやく安心して門口を出た。
 街なかは黒く沈まり返って何一つない。ただ一条の灰白の路がぼんやりと見えて、提灯の光は彼の二つの脚をてらし、左右の膝が前になり後になりして行く。ときどき多くの狗に遇ったが吠えついて来るものもない。天気は室内よりもよほど冷やかで老栓は爽快に感じた。何だか今日は子供の昔に還って、神通を得て人の命の本体を掴みにゆくような気がして、歩いているうちにも馬鹿に気高くなってしまった。行けば行くほど路がハッキリして来た。行けば行くほど空が亮るくなって来た。
 老栓はひたすら歩みを続けているうちにたちまち物に驚かされた。そこは一条の丁字街がありありと眼前に横たわっていたのだ。彼はちょっとあと戻りしてある店の軒下に入った。閉め切ってある門に靠れて立っていると、身体が少しひやりとした。
「ふん、親爺」
「元気だね……」
 老栓は喫驚して眼を[#挿絵]った時、すぐ鼻の先きを通って行く者があった。その中の一人は振向いて彼を見た。かたちははなはだハッキリしないが、永く物に餓えた人が食物を見つけたように、攫み掛って来そうな光がその人の眼から出た。老栓は提灯を覗いて見るともう火が消えていた。念のため衣套をおさえてみると塊りはまだそこにあった。老栓は頭を挙げて両側を見た。気味の悪い人間が幾つも立っていた。三つ二つ、三つ二つと鬼のような者がそこらじゅうにうろついていた。じっと瞳を据えてもう一度見ると別に何の不思議もなかった。
 まもなく幾人か兵隊が来た。向うの方にいる時から、著物の前と後ろに白い円い物が見えた。遠くでもハッキリ見えたが、近寄って来ると、その白い円いものは法被の上の染め抜きで、暗紅色のふちぬいの中にあることを知った。一時足音がざくざくして、兵隊は一大群衆に囲まれつつたちまち眼の前を過ぎ去った。あすこの三つ二つ、三つ二つは今しも大きな塊りとなって潮の…

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