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能楽論
のうがくろん
作品ID4444
著者野口 米次郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆87 能」 作品社
1990(平成2)年1月25日
入力者渡邉つよし
校正者門田裕志
公開 / 更新2002-12-01 / 2014-09-17
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

『あなたが橋掛りで慎しやかな白い拍節を踏むと、
あなたの体は精細な五官以上の官能で震へると思ふ……
それは涙と笑の心置きない抱合から滲みでるもの、
祈祷で浄化された現実の一表情だ、
あなたは感覚の影の世界を歩く……暗いが澄み切つた、冷かで而かも懐しい。
ああ、如何なる天才があなたを刻んだか、
彼はあらゆる官能の体験を蒸留し、蒸留し、
最後に残つた尊い気分をあなたに与へたに相違ない。
故に、あなたは特殊の広い深い想像の世界……いや詩の世界に目覚めた。
私はあなたを見て、いつも感情の貯蔵とその表現に驚く、
あなたは偉大な感情の保留者だ、
あらゆる世界の舞台で、あなたのやうな感情の節約者は見出されない。
(真実の芸術は感情の節約から始まる。)
然しあなたは、適当な一語勢を得て即座に涙となり、
また笑ともなる。
(私は笑と涙が同根元から流れ出ることを知つてゐる。)
ああ、何たる中性的驚異があなたにあるであらう。
あなたの細長い眼を高く離れた所にある一対の眉、
割にふとく低くどつしりと坐つた鼻、
白い歯並を見せた下唇が上の方へしやくり上つた小さい口、
如何なる女でも、自分の類似をあなたの何処かに見出すであらう、
あなたは一箇の女でない、
すべての女だ、
すべての女を臼で砕き、その粋を集めて出来たものが即ちあなただ……
あなたはすべての女の幽霊だ。』

     一

 情景兼ね備はる詩劇の逸品は松風の一番に止めを刺す。これぞ正に日本文学中比類のない、柔かな月影が野分の海岸を照らし海人の呼声が物凄い須磨の浦の一場面である。恐らく世界の文学へ持ち出しても、この一篇に優る艶麗と悲痛の詩劇はあるまい。これを舞台で見ると、恰も阿片でも飲んだやうに麻酔させられ、夢心地に追憶的な恋の悩みを感ずるであらう。『妄執の夢に見ゆるなり、我跡弔ひて給びたまへ』と憐れな二人の女性が合掌して、心に響く波の声を聞いて拍子を踏み、『吹くや後の山おろし関路の鳥も声々に』とあつて、明け始める東の空を眺め、『村雨と聞きしも今朝見れば、松風ばかりや残るらん』とこの一番が終る時、誰もほつと一息ついて痛ましい詩の恍惚境から目覚めるの感があるであらう。ツレもシテも幕の内に入つて仕舞つても、観客の耳には永劫に吹く風と波の声が残るであらう。掛橋を独り帰つてゆく旅僧を見て、誰もその寂しい姿に打たれるであらう。
『痛はしやその身は土中に埋もれぬれど名は残る世のしるしとて、変らぬ色の松一本、緑の秋を残す事のあはれさよ』と諸国一見の旅僧が歌ふ時、諸君は薄暮が須磨の海岸を包み始めると想像せねばならない。想像は不思議な魔法使だ。私共はその杖に触れて、静かな青白い寂しい月が天に上つてゐると想像する……『松風』の一番はいよいよ始まる。眼前に見る二人の女性は松風と村雨である。彼等は葛、葛帯、箔、腰巻、腰帯、白水衣の装をして掛橋で向き向…

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