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はる
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「芥川龍之介全集5」 ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年2月24日
初出「中央公論」1923(大正12)年9月、1925(大正14)年4月「女性」
入力者j.utiyama
校正者かとうかおり
公開 / 更新1999-01-05 / 2014-09-17
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

        一

 ある花曇りの朝だった。広子は京都の停車場から東京行の急行列車に乗った。それは結婚後二年ぶりに母親の機嫌を伺うためもあれば、母かたの祖父の金婚式へ顔をつらねるためもあった。しかしまだそのほかにもまんざら用のない体ではなかった。彼女はちょうどこの機会に、妹の辰子の恋愛問題にも解決をつけたいと思っていた。妹の希望をかなえるにしろ、あるいはまたかなえないにしろ、とにかくある解決だけはつけなければならぬと思っていた。
 この問題を広子の知ったのは四五日前に受け取った辰子の手紙を読んだ時だった。広子は年ごろの妹に恋愛問題の起ったことは格別意外にも思わなかった。予期したと言うほどではなかったにしろ、当然とは確かに思っていた。けれどもその恋愛の相手に篤介を選んだと言うことだけは意外に思わずにはいられなかった。広子は汽車に揺られている今でも、篤介のことを考えると、何か急に妹との間に谷あいの出来たことを感ずるのだった。
 篤介は広子にも顔馴染みのあるある洋画研究所の生徒だった。処女時代の彼女は妹と一しょに、この画の具だらけの青年をひそかに「猿」と諢名していた。彼は実際顔の赤い、妙に目ばかり赫かせた、――つまり猿じみた青年だった。のみならず身なりも貧しかった。彼は冬も金釦の制服に古いレエン・コオトをひっかけていた。広子は勿論篤介に何の興味も感じなかった。辰子も――辰子は姉に比べると、一層彼を好まぬらしかった。あるいはむしろ積極的に憎んでいたとも云われるほどだった。一度なども辰子は電車に乗ると、篤介の隣りに坐ることになった。それだけでも彼女には愉快ではなかった。そこへまた彼は膝の上の新聞紙包みを拡げると、せっせとパンを噛じり出した。電車の中の人々の目は云い合せたように篤介へ向った。彼女は彼女自身の上にも残酷にその目の注がれるのを感じた。しかし彼は目じろぎもせずに悠々とパンを食いつづけるのだった。……
「野蛮人よ、あの人は。」
 広子はこのことのあって後、こう辰子の罵ったのをいまさらのように思い出した。なぜその篤介を愛するようになったか?――それは広子には不可解だった。けれども妹の気質を思えば、一旦篤介を愛し出したが最後、どのくらい情熱に燃えているかはたいてい想像出来るような気がした。辰子は物故した父のように、何ごとにも一図になる気質だった。たとえば油画を始めた時にも、彼女の夢中になりさ加減は家族中の予想を超越していた。彼女は華奢な画の具箱を小脇に、篤介と同じ研究所へ毎日せっせと通い出した。同時にまた彼女の居間の壁には一週に必ず一枚ずつ新しい油画がかかり出した。油画は六号か八号のカンヴァスに人体ならば顔ばかりを、風景ならば西洋風の建物を描いたのが多いようだった。広子は結婚前の何箇月か、――殊に深い秋の夜などにはそう云う油画の並んだ部屋に何時間も妹と話しこんだ。…

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