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大菩薩峠
だいぼさつとうげ
作品ID4507
副題26 めいろの巻
26 めいろのまき
著者中里 介山
文字遣い新字新仮名
底本 「大菩薩峠10」 ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日
入力者tatsuki
校正者原田頌子
公開 / 更新2004-03-12 / 2014-09-18
長さの目安約 346 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

         一

 信濃の国、白骨の温泉――これをハッコツと読ませたのは、いつの頃、誰にはじまったものか知らん。
 先年、大菩薩峠の著者が、白骨温泉に遊んだ時、机竜之助のような業縁もなく、お雪ちゃんのようにかしずいてくれる人もない御当人は、独去独来の道を一本の金剛杖に託して、飄然として一夜を白槽の湯に明かし、その翌日は乗鞍を越えて飛騨へ出ようとして、草鞋のひもを結びながら宿の亭主に問うて言うことには、
「いったい、この白骨の温泉は、シラホネがいいのか、シラフネが正しいのか」
 亭主がこれに答えて言うことには、
「シラフネが本当なんですよ、シラフネがなまってシラホネになりました……シラホネならまだいいが、近頃はハッコツという人が多くなっていけません――お客様によってはかつぎますからね」
 シラホネをハッコツと呼びならわしたのは、大菩薩峠の著者あたりも、その一半の責めを負うべきものかも知れない。よって内心に多少の恐縮の思いを抱いて、この宿を出たのであったが、シラホネにしても、ハッコツにしても、かつぐどうりは同じようなものではないか。こんなことから、殺生小屋を衛生小屋と改めてみたり、悲峠をおめでた峠とかえてみたりするようなことになってはたまらない。
 そんなことまで心配してみたが、きょうこのごろ、風のたよりに聞くと、白骨の温泉では、どうか大菩薩峠の著者にもぜひ来て泊ってもらいたい、ここには四軒、宿屋があるから、一軒に一晩ずつ泊っても四晩泊れる――と、何かしらの好意を伝えてくれとか、くれるなとか、ことわりがあったそうである。してみれば、ハッコツの呼び名が宣伝になって、宿屋商売の上にいくらかの利き目が眼前に現われたものとも思われる。しかし、宣伝と、提灯が、どう間違っても、白骨の温泉が別府となり、熱海となる気づかいはあるまい。まして日本アルプスの名もまだ生れてはいないし、主脈の高山峻嶺とても、伝説に似た二三の高僧連の遊錫のあとを記録にとどめているに過ぎないし、物を温むる湯場も、空が冷えれば、人は逃げるように里に下る時とところなのですから、ある夜のすさびに、北原賢次が筆を取って、
白狼河北音書絶(白狼河北、音書絶えたり)
丹鳳城南秋夜長(丹鳳城南、秋夜長し)
と壁に書きなぐった文字そのものが、如実に時の寂寥と、人の無聊とを、物語っているようであります。
 その時、その温泉に冬越しをしようという人々――それはあのいやなおばさんと、その男妾の浅吉との横死を別としては、前巻以来に増しも減りもしない。
 お雪ちゃんの一行と、池田良斎の一行と、俳諧師と、山の案内人と、猟師と、宿の番人と、それから最近に面を見せた山の通人――ともかくも、こんなに多くの、かなり雑多な種類の人が、ここで冬を越そうとは、この温泉はじまって以来、例のないことかも知れません。
 そこで、この一軒の宿屋のう…

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